2019年12月31日火曜日

水戸へ

 年の瀬に、なぜか水戸へ1泊2日で参りました。
 茨城県立歴史館および駅前の会議室にて研究会討議。そのあと、水戸市の発行による「水戸学の道」という案内図も参照しながら、複数の名ガイドとともに、水戸城の土塁=空堀の構造がそのまま残っている所を歩きました。水戸は1945年のなんと8月2日に空襲されたのですね! → https://www.city.mito.lg.jp/001373/heiwa/heiwa/p002581.html

 快晴の冬空の下、義公(光圀、水戸黄門)生誕の地から、坂を登って旧本丸の県立第一高校、二の丸の白壁塀、大日本史編纂の地(格さん像)、師範学校跡、再建された大手門から大手橋をわたって、三の丸の弘道館へ。慶喜謹慎の場でもありました。
https://www.ibarakiguide.jp/kodokan/history.html
漢文の書式(作法)についても教えられましたが、戊辰戦争にともなう弘道館の戦い(天狗争乱)については、まったく知らなかった。後まで尾を引く、悲しい(むなしい)歴史です。
 梅園を通って、旧県庁の裏手、そして正面へ。
 ここで今井宏さんの生涯、そして遅塚家のことも思い浮かべ語りながら、銀杏坂へ。坂道を下りきったところにある大銀杏も、水戸空襲の忘れ形見なんですね。

 2日間ともに寒く、快晴。水戸を訪れるにはふさわしい日でした。

2 件のコメント:

古谷大輔 さんのコメント...

烈公(徳川斉昭)撰『弘道館記』(1838年)の拓本が京都大学貴重資料デジタルアーカイブで見られます。先の合宿で中国史研究・日本史研究の第一人者から教えて頂いた漢文の作法について、但野正弘『水戸烈公と藤田東湖『弘道館記』の碑文』(水戸史学会、2002年)でも以下のような整理がありました。リマインドとして多少文章を改めて整理します。(水戸時代に僕は但野先生から日本史を教えて頂きました。)


⑴擡頭…表敬第1位を表す神聖・寶祚・神皇などの語句は、改行して1字分を突出させる。
⑵平出…表敬第2位に表す東照宮・日本武尊などの語句は、改行するが突出はさせない。
⑶闕字…表敬第3位を表す義公・國家・神州などの語句は、文中に1字ないし3字の字間をあける。


「弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。」で始まる『弘道館記』で「道」は「天地の大經」と説かれています。この世の原理(principle)とでも呼ぶべき「道」は、会沢正志斎のように普遍的なもの、徳川斉昭のように中国と日本で共有されているもの…と論者によって多様です。しかし『弘道館記』の草稿を練り『弘道館記述義』(1847年)で注釈をまとめた藤田東湖が『回転詩史』(1844年)で「大義を明らかにして皇道は興起する」と詠んだことを思えば、各々の地に固有なprincipleを彰らかにしてわかる「皇道」は「日本固有のconstitution」とも読めます。ですから、先日の水戸踏査の際、僕は『弘道館記』で言われた「尊皇」などは、そうしたconstitutionを尊ぶことだっただろうと思いを巡らせていました。


印象のみに基づく単純な議論は慎みますが、先日のジャコバン研究会にて近藤先生から「革命のキーワードとしてconventionが重要」と教えて頂きました。またフランス革命で対立した様々な政治勢力が、constitutonの奪い合いに似た抗争を展開していた点も確認されました。翻って、上記の水戸の論調を踏まえた幕末から明治の「革命」家たちにも、古来成文化されなかったconstitutonやconventionをどう見るかが重大だっただろうと思いを馳せることができた点で、先日の踏査に意味があったと思います。(ただし幕末の水戸の行く末が弘道館戦争(1868年)を頂点とする壮絶な「内ゲバ」の結果、余力を失ったことを思うとき、それは世界史的にも現代史的にも既視感を得る悲劇のひとつであって、正直「虚しさ」を覚えます。)


今年もご教導のほどよろしくお願いします。

近藤 さんのコメント...

コメントありがとうございます。
水戸はまことに人を考えさせる場所ですね。
コメントされているような漢文的知識と欧文的知識(の共存)から成り立っていたはずの、福澤諭吉・夏目漱石 → 大塚久雄・丸山真男の言説ですが、あまりむずかしい漢語に引きづられることなく、わかりやすい近代口語の書き言葉を確立したという事実も、明治から昭和初期の日本語世界にとって決定的とおもわれます。
これは国体明徴運動に近い人々が、むやみにむずかしい漢語の微妙なニュアンスにこだわったのと、対照的。