(承前 5月9日)
ちなみに、might-have-been (未練記事)ですが、当初ぼくが岩波文庫の「青春の三冊」として考えてみたのは、次の3つでした。
¶トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』
走る馬の連続写真、金髪のインゲ‥‥。高1の少年にはこちらのほうが『若きヴェルテル』よりも分かりやすかった。新潮、角川など他の訳もありましたが、岩波文庫のタイトル表記に惹かれました。
¶夏目漱石『三四郎』
名古屋駅で一緒に降りた女性と同室に泊まり、翌朝「度胸のない方ですね」と言われて「両方の耳がほてり出した」三四郎と同レベルの、うぶなストレイシープ。巻末にいたっても三四郎は、「舌が上顎へひっついてしまった」という。なんという青春・恋愛小説家なんだ、漱石は。
高校生のぼくは本郷の「御殿下運動場」や「三四郎池」に立って「現場追体験」(?)してみましたが、いま読み直すと、美禰子さん、よし子さんの両タイプ、書かない先生=「偉大なる暗闇」論もあって、現代的です。
¶マルクス『経済学・哲学草稿』
これは東大駒場1年生の衝撃。訳者 城塚登先生の講義「社会思想史」でも、折原浩先生の講義「社会学」でもテキストに指定されて、大教室の何百人の受講生が熱気に引きずり込まれました。まだ木造2階建てのギシギシいう1階にあった生協書籍部に、朝、胸の高さまで山積みされた『ケーテツ・ソーコー』が夕方には残部わずか、という日が繰りかえされる時代でした。城塚先生のかっこよさに惹かれて、本郷で開講されたヘーゲル『精神現象学』の授業にも出ました。
. . . という具合ですが、あまり懐古的では面白くないし、こうした青春の古典は、きっと他のだれでも挙げるだろうと考えて、止めにしたのです。
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