2019年9月22日日曜日

大庭健さんを偲ぶ会 

 今日22日(日)、専修大学の眺望の良い部屋で大庭健さんを偲ぶ会が催されました。遺された原稿を編集した『人-間探究としての倫理学 - 遺稿』というA4の冊子(付録と一緒で計160ぺージ)もいただき、また回想や逸話を聞いて充実した夕べでした。
倫理学・哲学関係のみなさんに続いて、ぼくも旧友として4番目に挨拶をしました。他にもっと適切な方が(とくに折原先生とか、八木さんとか)おられるはずですが、その代わりのようなつもりで、また弟分のような気持でお話ししました。要点は以下のとおりです[一部割愛します]。

¶ 昨年10月に大庭健さんが亡くなり、11月23日、柏木教会の葬儀告別式に参りました。
 → http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_24.html
ほぼ1年後の今日は「偲ぶ会」に来ているわけですが、残念ながら、じつはどちらの会でも存じ上げないお顔ばかりです。これは、大庭さんの人倫の交わりの広がりのうち、近藤がクリスチャンでなく、哲学・倫理学関係でもなく、専修大学関係でもない、マージナルな所に位置しているため、と思われます。Odd man out ではありますが、大庭さんの死を悼み、お人柄を偲ぶという点では人後に落ちないつもりです。機会をいただきましたので、1960年代後半、大庭さんが倫理学者・大学教師になるより前のエピソードをお聞きください。

¶ そもそもぼくが大庭さんに出会ったのは、1967年の春、折原浩先生の一般教育ゼミでした。大庭さんが東京大学に入学なさったのは1965年で、ぼくはその1年下です。なにか人文社会系の学問みたいなことをやりたいと思っていましたが、焦点は定かでなく、大教室で聴いた3つの講義がおもしろいな、と思っていたころでした。
 と申しますのは、第1に城塚 登 先生の社会思想史、第2は京極純一先生の政治学、第3が折原先生の社会学でした。デュルケムの自殺論からアノミーを論じ、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』や『経済学批判』から唯物史観の考えかたを説き、ヴェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』から信仰・社会層・生活規範の分析をやってみせる。大学に入学したばかりの者に、岩波文庫の何ぺージ、何行目と指示しながら学問のイントロダクションをやってくださったのです。圧倒されました。2年生になる前に直訴して、講義とは別に開講されていた小人数のゼミに出席させてくださいとお願いしたのです。
 折原先生はまだ31歳で、駒場の教員になって3年目。ヴェーバーの『宗教社会学論集』を踏まえながら、テキストとしてはあの『経済と社会』のなかの「宗教社会学」という章、まだ翻訳がなく、英訳を用いてこれをしっかり読んでゆく演習でした。このゼミを仕切っていたのが(駒場で3年目の)大庭さんだったのです。読み進むにつれて、パーソンズの弟子フィショフの英訳にはいろいろ問題があるというので、結局ドイツ語のテキストを参照することになりますが、そのドイツ語の読み方から、報告レジュメの切り方、討論の仕方にいたるまで、リードしてくれたのは大庭さんでした。折原先生も、大庭さんを右腕のように頼もしく思っておられたのではないでしょうか。

¶ 翌68年度に、大庭さんは熟慮のうえ(何度も和辻哲郎の名をあげていました)倫理学へ、ぼくは西洋史へ進学しました。同時に折原先生の駒場のゼミには2人とも毎週欠かさず通いましたし、文学部では「宗教社会学」という講義を始められたので、これも出ました。さらに大庭さんに誘われて、駒場の杉山 好先生のお部屋で隔週でしたか、夕方からヴェーバーの『古代ユダヤ教』を読みました。みすず書房の内田芳明訳がすでに出ていたのですが問題が多い翻訳で、原文を読んで、誤訳や不適訳を見つけて腐(くさ)す、という会でした。ドイツ語については杉山先生の学識に大いに啓発されましたが、その信仰心には付いて行けず、居たたまれなくなることもありました。『古代ユダヤ教』については、その後も(杉山先生抜きで)68年夏に野尻湖のある人の別荘で合宿して読み合わせました。
 少し前後しますが、折原先生も書いておられるように、68年の学年始めまで「約3年間[余り]は、講義と演習の準備に追われ、学問の季節‥‥」(『東大闘争総括』p.134)だったということですが、その学問の季節をぼくたちも、大庭健、社会学の八木紀一郎、舩橋晴俊、経済史の八林秀一といった人たちとご一緒できたのは幸せなことでした。今のぼくの学問の基礎力・エッセンスのようなものは、折原ゼミと大庭さんによって学び、鍛えられたと考えています。

¶ そうこうするうちに、68年6月17日に本郷キャンパスに機動隊が導入されて、学内の空気は一変し、学科討論やゼミ討論、そして無期限ストライキへと向かいました。ナイーヴなぼくにとってはエキサイティングな政治の季節の始まりでしたが、大庭さんの場合は落ち着いて運動も学問も積極的にこなしておられたようで、だからこそ無期限ストライキのさなかに大庭提案による『古代ユダヤ教』合宿もありえたわけです。68年6月に始まった文学部の無期限ストライキは、1年半後の69年12月まで続きます。
 急いで付け加えますが、この18ヶ月におよぶ学園闘争中に政治と学問は別のものではなく、一つのことの二つの面でした。だからこそ、マルクスやヴェーバーといった古典から、大塚久雄や丸山眞男を読み、さらにルソーやスミス、内田義彦や平田清明『社会主義と市民社会』を読み合わせる会のようなことをずっと続けていました。
若い世代、といっても今60歳未満の方々ということになりますか、この点ははっきり区別していただきたいのですが、一方で、東大執行部の権威主義的でパターナルな姿勢を批判する、ビラのガリ版を切り、謄写版で何百枚か刷り、食堂や教室の入り口で配る、立て看をきれいに仕上げて銀杏並木に立てかける、ヘルメットをかぶって街頭デモ行進をするといったことと、他方で、ゲバ棒を人に向かって打ちつけるとか、「帝大解体」を叫ぶとかいったことは、全然別のことでした。

¶ 70年代に入ると大庭さんの口からベンサムの pleasure & pain、 分析哲学、そして廣松渉といった名がしばしば出てきて、なにか大きな展開が始まったな、とぼくにも感じられました。その後、ご存じのとおり、大庭さんは倫理学者として、広く人と社会にかかわる発言に積極的に取り組むことになります。ぼくの最初の単著は『民のモラル』というタイトルで、大庭さんにも送りましたが、人倫を問い続けていた大庭さんの感想はまた独特でした。
 最後にお目にかかってお話したのは2007年で、図書館長として多忙ななか、専修大学で「人文学の現在」といった講座を企画して、ぼくにも加わるよう誘ってくださったのでした。これは残念ながら実現しなかったのですが、その折のメールのやりとりで、「相変わらずのスモーカーなので、たいした風邪でもないのですが、長引きます」といった発言があり、心配していました。
 たくさんの本を出版なさり、倫理学会会長もつとめ、漏れ聞いているだけでも「大庭兄」に私淑している方は何人もいらっしゃいます。やり残したお仕事、心残りもあったと思いますが、知的な影響力という点で実り豊かな人生だったのではないでしょうか。別の分野に進みましたが、ぼくもそうした影響を享受した「弟分」の一人です。
 大庭さん、ありがとうございました。

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