2015年4月18日土曜日

ピケティの仕事

 The History Manifesto (2014)も明示的に The Communist Manifesto (1848)のパロディ、あるいは「虎の威を借りて」登場したマニフェストといった側面がありました。別にこう言ったから The History Manifesto の価値が貶められるとは思いません。若い人に『共産党宣言』って何だ?と喚起する波及効果もあるし‥‥
Thomas Piketty, Le Capital au XXIe siècle (2013; みすず書房 2014)もまた Das Kapital (1867)を21世紀的に横領した命名です。でも、これは非難や否定ではない。
 → http://www.msz.co.jp/book/detail/07876.html


 ピケティの『21世紀の資本論』が力強く目覚ましいのは何故か。けっして一部でいわれているような
・「格差」の深刻さ/不可避性を明らかにした、とか
・日本の将来のための有効な処方箋が示されている、とか
いったことではない。ピケティは社民党や共産党の広告塔ではありませんし、アベノミクスの批判者として登場したのでもありません。
12月~3月くらいの新聞雑誌・テレビにおけるすごいブームが、年度替わりとともに後退したかにも見えますが、これはマスコミの浮気心の証拠ではあれ、ピケティの仕事の限界でも何でもありません。

 むしろ、学問的に彼の方法と議論がすばらしいのは、
1) 短期でなく歴史的に長期の(3世紀にわたる)データを集積し分析することによって、クズネッツの短期分析の誤り(時代に拘束された楽観論)を明らかにし、それまで見えなかった長期変動と法則性を見えるようにしてくれたこと【この点で、マルクス『資本論』における議会刊行物を使った本源的蓄積[原蓄]の長い歴史よりもずっと計量的で説得的な議論を呈示している】;
2) 「国民経済の型」があるとしても、それは50年以上もすれば変わりうることを示し;
3) 1930年代~70年頃までに(万国共通とはいわないが)多くの国で特異な民主的移行期を経験したこと、を説得的に明らかにしているからでしょう。
ぼくなら、経済分析における(久々の)歴史的dimensionの復権、or 歴史学における経済分析の再登場、or もっと端的に歴史学のルネサンスといいたい。

 なお以上に加えて、4) 付随的に、ニューディール期からヴェトナム戦争期までの間に成長し、知的形成をおこなったインテリたち(民主的知識人)の存在被拘束性があばかれ;丸山真男、岡田与好、柴田三千雄、二宮宏之、遅塚忠躬、和田春樹から、ずっと下って、近藤にまでいたる、知と発言が相対化されているのではないでしょうか? 民主主義の歴史化。日本現代史の相対化。そういったすごい仕事だと受けとめました。

 学問は、その政策的な提言・有効性で評価するのでなく、その知的なインパクトで評価したい。

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