2020年5月21日木曜日

自粛ポリス


 世間では「自粛ポリス」とかいった攻撃的な、しかしチマチマした民衆的〈制裁〉が見られるらしく、悲しい。
 近現代の国家(≒福祉国家)では暴力・強制力は国家が独占する(リンチを許さない)という原理で動いていますが、そうなるより以前の国家社会では - そもそも警察はなかったし - 自力救済で問題を解決するか、逆に軍隊の強制に反対するしかなかった。やむにやまれず、たいていは1個人の単独行動より、共同体としての直接行動・示威行動でした。騒擾・一揆・リンチ・シャリヴァリ、そして直訴がくりかえされたわけです。
 そうしたさいに、ただ何かに異議を申し立てての抗議や反乱というより、むしろ「官」が行きとどかない/職務怠慢であるのに代わって、自ら正しい(とされている)ことを執行する -〈正義の代執行〉あるいは〈制裁の儀礼〉といった行動様式が、日本でもヨーロッパでもアメリカでも見られました。そのことの意味を
拙著民のモラル ホーガースと18世紀イギリス』〈ちくま学芸文庫〉で考えました。
 そのときは文明人にとっての「異文化」、その意味を考えるというスタンスで、これは〈いじめ〉問題の捉えなおしにもつながると考えていたのです。コロナ禍のような、想定外の緊迫・恐怖が続くと、これまでマグマのように鎮静していた民衆的・共同体的な〈騒ぎとモラル〉の文化が噴出してくるのですね。
 そこまではよく分かります。でも、今日見られる「自粛ポリス」は、たいてい権力をカサに着た、チマチマして匿名の〈いじめ〉、あるいは脅しのようで、目の覚めるような未来への構想・〈夢〉は示してくれない。もっと前向きに開けた直接行動・デモンストレーションがあると、楽しいのにね。
 むかし、「国大協自主規制路線 反対!」とか言っていたのを想い出します。

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