2011年12月16日金曜日

岩波新書

今年度は立正大学の2年生演習で、内田義彦『社会認識の歩み』と、柳父章『翻訳語成立事情』を読んでいます。ついでに東大の3・4年生の演習では、カー『歴史とは何か』とその Evans/third edition (2001) を読んでいます。
ずいぶん前の岩波新書ですが、学生の買ってきた版をみると、
  『社会認識の歩み』が初版いらい40年間で51刷;
  『翻訳語成立事情』が 29年間で34刷;
  『歴史とは何か』が 49年間で79刷!

それぞれすごいロング・セラーですね。
今となっては、いささか問題点なきにしもあらずとはいえ、出版されたときのインパクトを考えれば(imagine the past)すばらしい本だったことは明らかです。新しい古典というに値する新書。

 ただし、内田義彦にして、「断片を読む」、結節点、結節点‥‥、そして「個体発生は系統発生を繰りかえす」、と大事なことを印象的、効果的に言いながら、でも、あれっと思うほど、権威主義的で定向進化的な話の枠組が見え透きます。これは今のわれわれからすると驚くほど。
大塚のような近代主義者でなく、むしろ近代そのものを問題意識化していた内田にしてこうなのだ、と昭和の知識人たちの存在被拘束性に、思いいたります。

 柳父章の新書は、具体的なのがおもしろい。
部分的に同じような議論もしながら、これを『文明の表象 英国』(1998)で引用しなかったのはなぜか? その理由は今となっては定かでありません。80年代に名古屋で読んでいたのに(前谷くんと一緒に、加藤周一的なフレームで)、そして「近代」とか「舶来の言葉」とか、いくらでも使える部分があるのに、why not?
単純に、そのとき忘れていたんでしょう。『近代の超克』論について、また漱石が「今代」という当て字を使っている点の指摘などでも、ぼくのほうに利がある部分もあります。

 こうした昭和の学者たちに比べて、オクスブリッジのソシアビリテに寄りかかりすぎとはいえ(イギリスの知識人にはこれ以外の frame of reference はなかった)、E. H. カーは毫も古くなっていない。70年代の内田よりも新しい。どうしてでしょう。
 19世紀的近代とはちがう「現代」を考えるにあたって、ソ連の歴史はパスできない。それはカーの強みですが、しかし彼はアジアのことをじつは分かっていない。Yet,「‥‥それでも地球は動く」と進歩主義的な楽観で締めくくっています。He remembers the future.
 究極的には「底が浅くない」経験主義の強み、といえるでしょうか。考え書くのは自分一人なのだが、しかし、それは孤立した個人の営みではない、という文化。

【なお岩波新書については、しばらく前にこんなことをしたためました。
→ http://岩波新書・加藤周一

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