しばらくご無沙汰していますが、offline ではミニマムの諸々をこなしています。
『図書』に連載しています列伝「『歴史とは何か』の人びと」の第4回(12月号)は「アイデンティティを渇望したネイミア」というタイトルです。ルイス・ネイミアについては、むかし『英国をみる - 歴史と社会』(リブロポート、1991)で「ネイミアの生涯と歴史学 - デラシネのイギリス史」という小文を書きましたが、今はE・H・カーおよび20世紀前半の知識人の世界でネイミアという人物をとらえなおそうとしています。
一方では「ユダヤ人でありながらユダヤ教徒でなく、ポーランド生まれでありながらポーランド人でなく、地主でありながら土地を相続せず、結婚しながら妻は不在」とされる不幸なネイミアですが、他方でカーは、かれこそ「第一次世界大戦後の学問の世界に登場した最大のイギリス人歴史家」という賛辞をささげます(『歴史とは何か 新版』p.55)。この不思議な「‥‥粗野で態度が大きく‥‥2時間でも自説を弁じ続け」る男の学問は、カーの緻密な実証主義の手本でもあったわけです - この点は溪内謙さんも十分な理解は及ばなかったかな? またネイミアはアーノルド・トインビーともA・J・P・テイラとも(ひとときは)親しく交わった。そして、むしろ彼の死後に勢いをもつ修正史学の先鞭をつけたようなところがあります。
学問とはすべて本質的には(アリストテレス以来の定説の)修正であり、長い註だ、という観点に立つと、ネイミアはまさしくそうした revisionism という学問の王道を行った人ということになります。だからこそ(一見正反対にみえる)E・P・トムスンも、あのリンダ・コリも、ネイミアの名言:「歴史学で大事なのは、大きな輪郭と意味ある細部だ」には脱帽するしかないわけですね。
これは、オクスフォード・ベイリオル学寮で、トインビーとの座談のうちに出てきたセンテンスらしいですが。
‥‥ある樹木が何であるか調べるのに、枝が何本あって何メートルあるか計測してみても何にもならない。樹影全体の形を見きわめ、樹皮を見、葉脈の形状を調べるべきなのである。それをしないまま泥沼のようなどうでもいい叙述にはまることだけは、避けなければならない。
秋の快晴の空を背景に屹立するみごとな欅を見上げつつ、想い出しました。(枝も葉もなんとなく右に傾いているのは、右が南だから‥‥)
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