2015年10月3日土曜日

遅塚先生

『日本経済新聞』には有名な「私の履歴書」とともに、そのマイナー版のような交友録のコラムがいくつもあり、それぞれ良いのですが、
9月29日(火)の「交遊抄」には立石博高さんが「青銅の気持ちで」と題して遅塚忠躬先生のことを書いておられます。東京都立大学時代(1969-87)に大学院生にどう接しておられたのか、ぼくの知らない世界ですが、でも立石さんが書いておられることは十分に想像できる。ぼくの知っている遅塚さんです!

ぼくが遅塚さんに初めて出会ったのは何年何月何日かいまとなっては言えないけれど、しかし、たしかに東大の授業再開後、ぼくは院生で、おそらく1971・2年のある日の本郷の西洋史研究室、今では談話室と呼んでいる、あの大きな机を囲む部屋でした(名誉教授たちの肖像写真はまだなかった)。遅塚さんのほうから、「あなたが近藤くんですか。遅塚です」とにこやかに明朗に、声をかけてこられたのです。
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以後、本郷に非常勤講師でいらしたころ(1975-76年)にぼくは助手で授業を聴講する権利はなかったけれど、3・4学年ほど下の青木康や深沢克己などと一緒に講義を欠かさず聴いてしっかりノートに取ったものです。一言一句逃すまいと、可能なかぎり速く筆記する術を身につけました。そのころの深沢くんは目黒区のアパートと遅塚家とが案外に近隣だというのを発見して、ぼくたちにその喜びを語ったものでした。1976年10月、土地制度史学会の高知大会にまで一緒に出かけたのは、そうしたことの延長でしょう。みんな遅塚ファンだったのです(藤田さん、高澤さん、岩本さんをはじめとする女子学生だけではありません)。
その後もあらゆることでお世話をかけっぱなしで、パリのモンパルナスでの会食、サンドゥニへの珍道中とか、名古屋の研究会とか、たくさん楽しいこともありましたが、『過ぎ去ろうとしない近代』(1993年3月)以降、晩年は、むしろ先生とぼくとの距離感がはっきりしてしまいました。最後は、本郷構内でお一人でおられるところに遭遇したのですが、2010年の春、『史学概論』公刊の直前だったでしょうか、弱っておられました。
告別式で棺のなかの御遺体と、その脇に添えられていたものを見て、感極まり嗚咽したぼくにたいして、ある男が「近藤さん、泣いちゃだめだよ」と言いました。

先生の大きくて優しい声は、いつも心のなかに響いている。

「交遊抄」を読み、立石さんとぼくは近いところにいるのだと思いました。

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