2010年9月26日日曜日

先行研究は?

 どういった分野でも、本当に意味ある研究は「息が長い」というか、20年、30年のスパンでは簡単にひっくりかえらなかったりする。
 昨日 Wiley-Blackwell からの Online 登載通知で知ったのですが、最新のEconomic History Review Online に、例のブローデル & スプーナによる中世末から18世紀半ばまでの全ヨーロッパの穀物価格グラフ【初出は1967年。たとえば『岩波講座 世界歴史』16巻、pp.21-26】をめぐる議論と修正が、載りました。紙媒体の EconHR そのものは未だですが、これを定期購読している図書館からなら閲覧・ダウンロードできるはずです。


 (c) Economic History Society 2010
 『岩波講座 世界歴史』16巻を書くに先だって(1997~99年初ころでした)、二宮宏之さんに最近の研究について質問したのですが、ブローデルのような大きな議論はね ‥‥ と消極的な反応。それにしても1967年から30年経ってもそのまま放っとかれているのか、それとも日本の学界が鈍感なのか、と不思議な気持でした。
 今回の Victoria Bateman 論文によると、関連する個別研究がなかったわけではなさそう。
 そこで、わが懐かしの「馬の肩から鼻先までを横からみたグラフ」が、Bateman 女史によって前は14世紀、後は1782年まで引き延ばされ、また近世についても、こんなふうに変形されてゆきます。‥‥

 でも、落ち着いて読んでみると、これは本質的な修正なのか。ポーランドなどバルト沿岸を考慮にいれないで近世ヨーロッパ経済の収斂を語ってよいのでしょうか。これでは論点先取りで、バルトなしのヨーロッパは最初から統合的市場をもっていた、(馬の身体の上方のシルエットだけをみると、ほとんどアザラシかイルカのように見える)となる。
 卒読ですが、もしや、この論文にはかなり重大な視野の限定があって、これでは結局、研究をブローデル & スプーナ、ウォーラステインよりも前に引き戻す、ただの「業績」論文なのか(?) レフェリーは何のためにいるのでしょう。
 悪貨が良貨を駆逐する、というグレシャムの法則は学問の世界では流通してほしくない。

2010年9月25日土曜日

実学としての歴史学

 モリル先生に誘われて The 1641 Deposition Online というプロジェクトの打ち上げ研究会に交ぜてもらいました(11時~16時、17時までドリンク。その後ディナー)。


正式のインタフェイスはまだですが、すでに試行版がトリニティ大学図書館のサイトに載っています。今も、今後も無料。http://www.tcd.ie/history/1641/ すばらしい。見てみてください。

 アイルランド史で「研究のもっとも盛んな時代」すなわちおもしろいのは、近刊の『イギリス史研究入門』p.306 によると18世紀らしいですが、もしや史料的には、この1641年問題こそ外国にいる日本人にも互角に取り組める、取り組みがいのあるテーマなのか、と思いました。アイデンティティ、言語、記憶、記録、すべてにかかわる暴力、司法といった観点から、やるべきこと、やれることが山ほどありそう。

 革命のきっかけになった「アイルランド大叛乱=大虐殺」の証言録取書を全部テクストとしておこして、全文検索できるようにし、しかも元のマニュスクリプトも画像として対照しつつ見られる。これはすばらしく教育的。
 しかし教育的というのは、もっと広い公衆教育という意味も込められています。アイルランド・ブリテン間の喉に突き刺さった骨である、370年前の atrocity を
  The Irish cannot forget it;
  The English cannot remember it.
だったら原史料(公文書)をウェブに公開してだれにもアクセスできるようにし、大いに議論してもらおうじゃないか。こういう姿勢で、日韓・日中・日米のあいだの「歴史問題」を議論する公衆に委ねるということは可能なのでしょうか。
 これまでのイングランド(Cambridge)・スコットランド(Aberdeen)・アイルランド(Trinity)の3国研究者と、IBMのIT技術者と、オーバードクターの協力と雇用を兼ねた、何重もの trinity 企画。
修正主義者にしてよき教師モリル先生の手にかかると、このアカデミックな企画が、来年10月に完成して、正式ローンチをアイルランド共和国大統領と、北アイルランドのユニオニストの同席のもとに敢行し、しかも多様なブリテン、多様なアイルランドへの堅実な一歩としようというわけです。

 松浦高嶺先生、こうなると「修正主義は木をみて森をみない」という批判は、引っ込めないわけに行きませんね。テキは一枚も二枚も上でした。民族主義史観やピューリタン(純情)史観の克服をめざすのが修正主義なので、日本のナイーヴな「修正主義」とは本質的に違います。
Knowledge is mightier than ignorance. モリル先生の言うとおりですね。
ヨーロッパ的コンテクスト、17世紀の全般的な危機(と暴力の象徴主義)といったことも話題になりました。
(それから今晩、 Russell と Morrill との間には友情の亀裂があって、ラッセルが亡くなるまで本当の修復はできなかったと聞きました。)ぼくはぼくで、1980年、最初の留学時に Mark Goldie に勧められながら、revisionist seminar に出ることを忌避したという事実を告解して、赦しを請いました。

 ダブリン側の中心にいる Jane Ohlmeyer (上の写真で両 John にはさまれた美女)は、高神さんと同期とか? カレン先生ともお友だち。

2010年9月23日木曜日

Salzburg-Wien-Praha

この9月には(も)いろんなことが続いたので、Catholic Europe の大旅行が大過去のことになってしまいそうですが、そうしないために--


 【写真をクリックしてくださいな 】ザルツブルク(イギリス人にいわせればサルツバーグ)では「フニクラ」(!)で城に上ったらそれまで雨模様の空が晴れて、はるかにアルプスの氷河が望めました。モーツァルトの場合は、これをみて旅心を誘われたでしょう。氷河も向こうにはイタリア。「この街を出よう、大司教のもとから離れよう」と決めたときにも、やはりこの風景を見つめていたのか‥‥それは知りません。

 ウィーンは大都会なので、もっとゆっくりしないと見尽くせないな、と思いながら、それにしても美術史博物館はハプスブルク家の威信をかけた、圧倒的な知と美の殿堂。

ここで画学生(?) が模写しているのは、ブリューゲルの「謝肉祭と大斎節との争い」(『民のモラル』pp.230-1)でした。ぼくも絵心があるなら、1週間くらいかけて模写したいくらい不思議な迫力にみちた、構成的な絵です。
 木曜夜は9時まで開館ということで、館内のすばらしいホールでディナーをいただきました。

 プラハ城では 1618年、窓外放擲事件の現場をみて満足し、城の敷地内に、別料金で入る Lobkowicz Palace についてはパスしようかな、と思いながら下のカフェに入ってビールを飲みました。そこで思いがけず一つのビラを目にすることがなかったら、Lobkowicz に入ってカナレットの「ロンドン市長就任式の水上パレード(テムズから望む聖ポール)」に遭遇することはなかったでしょう。これは『江戸とロンドン』p.230の原画です。


これを contingency というのか、天の配剤(oeconomy)というのか。思ってたより、ずっと大きな絵。

 そもそもジェイムズ6世=1世の姫エリザベスは、ファルツ選帝侯フリードリヒに嫁するんだから、ブリテン内戦(イギリス革命)・ヨーロッパ大戦(30年戦争)の観点からも、この辺はきちんと観察しておかねばならないことでした。反省。

2010年9月16日木曜日

sent to Coventry?

 繁忙中、ウォーリク大学の Modern Records Centre に行ってリサーチをして参りました。雨がちの2日間、屋内でしっかり仕事をして、夕刻外に出ると、雲が晴れて快晴。
ウォーリク大学に行くのはじつは生まれてはじめて。一言でいうと名古屋大学を美しくしたようなキャンパスですね。


 それと正反対の印象が、コヴェントリ市。戦災の象徴のような大聖堂は、イングランドにおける広島の原爆ドームにあたり、しっかり詣でましたが、戦後の都市造りという点では、車の走行の激しいリングウェイで旧市街を円く包囲してしまったのには、大失敗、という印象を避けられません。

 夜、「人っ子ひとり居ない」とは言わないが、見えるのは20歳±のガキだけ。Middle class は家庭から出ないのでしょうか。食文化も無きがごとし。残念でした。

 大聖堂のネイヴに据えられた掲示板の文章が泣かせます。

 隣どうしとはいえ、むかし Newdigate mss を読むために通ったウォーリク市(Warwickshire CRO)とは全然ちがいます。

2010年9月12日日曜日

Anglo-Japanese History Colloquium, 10 Sep. 2010



 この間いろいろ書くべきことが続いていますが、時間がありません。

 すべて飛ばして、10日(金)に歴史学研究所(IHR)で開かれた colloquium ですが、国際交流基金からも来ていただきました。ありがとうございます。
英国史4本、日本現代史4本のコローキアム、どうなるかと心配しましたが、Harry, Ian, Joanna, Pene, Robert, Vivian, 島津さんにも来てくださって、活発でした。

 しかもその夕には、Miles Taylor によって待ちかねた出版物(右の写真)が launch されました。
  British history 1600-2000: expansion in perspective,
  edited by Kazuhiko Kondo & Miles Taylor (London: IHR, 2010)
  xiii+279 pp.
  ISBN 9781 905165 605
  高さ23cm, 幅15cm の出版物です。
  全報告、コメント、junior paperも所収。
  [イメージとして Historical Research の版型と色調を思わせる造りです。HRより濃紫色がつよく厚いのですが。]
ただし、まだ見本をみて触らせてくれただけで、配布まではされません。
もちろんAJC関係者(委員・報告者・コメンテータ)には送られますが、10月までお待ちください。

 マイルズには、また11月に九州の日韓で、ということでお別れしました。

2010年9月7日火曜日

Praha にて


8月末から中欧に旅行して、9日間、なかなか効率的に、お勉強しました。
カレル橋からプラハ城・大聖堂を望む夜景です。



こういった光景のただなかに身を置いて、高揚しないわけにいきませんね。
琢の書き物を読めば読むほど、invention of tradition といったことを考えざるをえません。19世紀のプラハ城・大聖堂、ヴァーツラフ広場を見おろす国民博物館、1989年11月17日、カレル大学の建物の壁の銘文、等々。The unbearable lightness of being も。
カナレットのウェストミンスタ橋および Lord Mayor's Day にしっかりめぐり逢ったのも、嬉しい付録でした。

2010年8月30日月曜日

In München und Salzburg

Now in Munich, I am sorry I cannot promptly respond to incoming emails.
I cannot read Japanese either!
Also I am not accustomed to German keyboard. z & y are replaced to each other, and you do not have dele key?

2010年8月28日土曜日

『イギリス史研究入門』のカバー


「だれもが知っているイギリス。歴史の重さゆえにわかりにくい英国。‥‥
 イギリスなる存在の広がりとアイデンティティの歴史的変化こそ、本書を貫く心柱のようなテーマである。」

と、400ページ余の共著の総説の初めに書きました。

 お待たせしています。
『イギリス史研究入門』のカバーができました。
ご覧にいれるのは、裏と背中。
山川出版社から送ってきた写真はA4より小さく、
表・背中・裏の全部を一挙に見せる画像がありません。
表は端正ですが、とくにおもしろみはなく、逆に裏カバーのほうに
定価を含めて必要情報が集中しているので、こちらの写真を載せます。
9月末です。 よろしく!
目次はこちらです

 10月から文学部の授業では、この本の使い方を案内することにします。
携行するために作ったレファレンスですが、索引もふくめて、利用しだいで何倍にも生きてくる本です。
インターネット関連についても充実していますよ。

2010年8月23日月曜日

Friends

 今週は超いそがしくて、-「極度乾燥(しなさい)」のノリだと 極度多忙にて -、ちゃんと分かるように(articulateに)ブログしてる時間がない。

 というわけで、火水木・土・日に参集したお友だち、および、はるばる panforte を託送して可哀相なアルプス以北のわれわれを歓喜させてくれたトスカーナの Oくんの厚意を記念して、
memento vivere の写真を4葉 登載します。

 備忘録風に、いちおう日付順に19日、21日、22日の撮影です。

 被写体からは、ROMの皆さまにもよろしくのことでした。

Landed aristocracy その3:御当主夫妻と会見

 じつは18世紀はじめのホウィグ貴族のもう一人の大物、turnip Townsend (すなわち「マンチェスタ騒擾とジョージ1世」の国務大臣タウンゼンド伯) の館も10キロほど離れたお隣さんですが、これは closed to the public.
 夕刻、車で農地のあいだを20分ほど南に戻って、緑のなか、これまた closed to the public と明記してある15世紀の館へ、お茶しに寄りました。

 こちらの当主 Sir John は Trinity Hall の卒業生、高級官僚・国際公務員でした。奥様が相続した館は、玄関のうえの家紋も崩れているように、ちょっとメインテナンス不足とはいえ、内部は16世紀くらいの板に描いた祖先の油絵肖像画が、こっちにもあっちにも掛けてある。【なにしろ奥様は、1770年代はノース首相の末裔でいらっしゃいます。】17世紀のタペストリもあちこちに。わたくしメ夫婦を案内してくださった2階のいくつもの寝室は、あきらかに何ヶ月も開けてない模様。隠れ階段もあるし、夜は怪しげな音も聞こえたりして、ちょっと怖いんではないだろうか。
 Sir John は退職後は美術愛好家で、NPOの理事もしている模様。Who's who にも載っています。レノルズ描いた誰某の肖像画、と話題になると、ただちにそのレファレンスを持ってきて、会話を確かなものにしてくださった。
 この陶磁器室には、サンドリンガムから Princess Anne がお茶しにいらっしゃいます!

 というわけで Sir は「平民」なのか? という問題にあらためて帰着します。今日訪問した3館の主、首相ウォルポールも、農業改良のクックも、もと国際公務員 Sir John も、平民最上位の Sir で、だからこそ庶民院(衆議院)の議員になれたのですが、House of Commons ははたして近藤の言うように「庶民院」でいいのか? むしろ青木さんの言うように、爵位貴族の上院(Lords)に準ずる、爵位なき貴族的下院(Commons)と呼ぶべきだ、というのも、たしかに一理ありますね。
 ただし、Sir を「卿」と訳すのだけは止めたい。卿は正真正銘の爵位貴族にのみあてはまる呼称です。

2010年8月20日金曜日

Whig aristocracy その2

 車でノーフォク州の農地のあいだを20分?ほど飛ばして、Holkham Hall へ。
・17世紀初めののコモンロー司法官にして「権利の請願」の起草者の一人 Sir Edward Coke (クック 1552~1634)の所領でしたが、

・18世紀初めに Thomas Coke, first earl of Leicester (1697~1759) が 7年間のgrand tour でイタリア美術に目ざめ、買ってきた美術品を効果的に展示するために建てたという豪邸 Holkham Hallです。
・このレスタ伯と次代の放蕩息子ゆえに破産するところ、これを防ぐべく、1776年に所領を相続して農業改良を推進した甥 Thomas William Coke of Norfolk (のちに first earl of Leicester of second creation (1754~1842))はというと、Arthur Young と ノリッジのRigby のお友だち。

 こうした3者の関係は、常識でしたでしょうか?
Walpole家では破産しそうになると3代目が絵をエカチェリーナ女帝に売却して凌いだ。∴エルミタージュ宮にウォルポール収集のコレクションがめだつ。 ⇔ これにたいして、Coke家では破産の危機に対処すべく、3代目が農業改良に専心する‥‥。ブルームやグレイとともに選挙法改革にもとりくむ‥‥。
 仕入れたばかりの知識を、本日リグビの坂下さんあいてに開陳してみたら、釈迦に説法でした。

 ホゥカム邸のご当主レスタ伯はいささか商業的で、日曜の午後ともなれば、庭や経営ホテルはひとで一杯。外も中も写真 OK。外装は質実剛健に力強く、内装は豪華絢爛、そこらの美術館・18世紀図書館に負けない備品。
そもそもあなた、所領は約100平方キロ(約10キロ×10キロ)! 北海の海岸線まで拡がります。東京の山手線のなかより広いかも。馬か自転車を借りなきゃ、周りきれません。

Whig aristocracy その1

 15日(V J day!)にノーフォク州の貴族の館2つを訪問したのですが、そのあとの付録もふくめて、印象は圧倒的です。あまり理性的でないブログとなりますが--

 10.00に4人で剣橋発、一路北へ。Houghton Hall(ハウトンです!)は日曜のみ11.30に gardens (複数形です!) が開場。
 まずはかつての kitchen garden に、期待せずに入りました。なんといっても首相ウォルポールの邸宅を見るのが目的ですから、18世紀前半でないものは、あまり‥‥
 野菜や果物、花などを栽培した所を、その機能も生かしながら、生垣でいくつもに囲い分けて性格のちがう遊びの空間を造ったものです。ごく最近の火炎を噴く噴水(water flame)といった際物もありますが、全体として安らぎと発見のある、楽しい空間。それぞれ囲いの中はちがう小世界をなすので gardens なのですね。

 厩舎のあとを改造したレストランで軽い昼食。
 1.20より本館開場。日本的感覚とちがって、西向きに(夏のディナーで長い夕刻の日射しを活かすために)こうした country house は建てられています。上の写真では館の西面を撮っていますが、撮影者の背面=西方には長ぁく植林されていない帯状の緑地が延びています。

 館内は、残念ながら撮影禁止。パラディオ様式、イタリア趣味、ディナー室の奥に cabinet room がありました。史上最初の閣議は、ウェストミンスタはホワイトホールではなく、ここで開かれたのだ、と自慢げに語られていますが、実はそれはヒイキの引き倒しですよ。Downing Street より前に Cock Pit と18世紀人が呼んでいた所でやっていました。 cf. List & Index Society: Cabinet Meetings をご覧じろ。
 ウォルポールが権力政治だけに専心していたとまで思いこんでいたわけではありません。
 それにしても(客を招いて見せる≒魅せるだけでなく泊める)空間のシンボリズムにまずは感銘しました。
 運転手の M.に急かされて、次の Holkham Hall へ。

2010年8月12日木曜日

9月10日 IHR にて


9月10日(金)午後にロンドンで開催される日本人博士取得前後の留学生むけの催しのプログラムは、ようやく IHRのサイトに掲載されました。綴りなどに間違いが散見されましたが、複数の方々の指摘で、13日現在、訂正版が載っています。
   → http://www.history.ac.uk/news/ihr
  日本人留学生4名のイギリス史研究報告、
  イギリス側日本現代史研究者4名の研究報告、
  交歓が目的です。
積極的にいらしてください(confirmed participants 以外の方は必ず IHR に事前登録してください)。ぼくも全日参加です。

念のため、ちょっと細工したものを FEATURES に載せます。
右の欄からクリックしてご覧ください。

2010年8月10日火曜日

その4:shore


 【写真はクリックすると拡大します】 こちらはエセクス州の海岸線にある Mersea という、満潮時には島となり、干潮時にはブリテン島と連結する地区。これでも2つの教区からなり、かつてはデーン人(ヴァイキング)の定住地となったよし。
 今では余裕のある引退世代の安住の地でもありますが、また写真のようなヨット係留港でもある。干満の差が激しくて干潮時には、こんな具合です。ローマのカエサルが侵攻した折にはさぞや難儀したことでしょう。

 英語の問題として shore とはただの海岸ではなく、高潮線と低潮線の間の土地を言うんだそうですね。coast とも beach ともすこしちがう、法律用語でもあるとのこと。

 なおまた、この辺の河川はテムズもふくめて tidal river です。日本では隅田川、淀川の河口近くではたしかに潮の影響で水位が上下することはあっても、航行に影響するほどではないでしょう。テムズ川の河口から50キロ遡ったロンドンでも潮の干満によって shore が隠れたり露出したりするのは、日本的な感覚からすると驚くべき事実です。こちらのペン画は Canaletto.

その3:ピューリタン史観?


 イングランド南東部は、ピューリタンの強かった地域でもあり、だからこそクロムウェルもケインブリッジ大学の学生だったのですが、ピューリタン革命の痕跡は、写真のような「偶像破壊」にも残っています。 cf. Walter, Understanding popular violence in the English revolution (CUP, 1999).
日本の高校世界史におけるピューリタン史観(プロテスタント原理主義によるカトリックに対する偏見)がいかに一面的だったか、反省させられます。矢内原忠雄・大塚久雄といった「人格高潔な」先生方の世界観を、いつまでも崇め奉り、護持すべきか、ということでもあります。

 なお、イングランド・プロテスタンティズムの拠点だったケインブリッジ大学の真ん中に位置するキングズ学寮チャペルは、現ブログの看板、および7月25日登載の写真のとおり。この華美にして popish な臭いのするステンドグラスを破壊すべく勢い込んでやってきたピューリタン兵士たちが、実際にチャペルに入ってその美しさに圧倒されて、これに手をかけることを止めた、という逸話が残っています。

 王制復古期の宗教政策について、戦後史学(代表は浜林正夫さん)では反動的で陰謀的な性格が論じられていました。それで良かったのでしょうか。むしろ同時代人の感覚からは、「あのピューリタンの時代に戻るのは、かなわない」という、それなりの合理性と中道性があって、支持される政策だったのではないでしょうか。Hudibras の物語 が熱烈に迎えられた時代です。
 1685年から急速にルイ14世にたいする警戒の念が強まる、というダイナミックスも忘れたくない。このナント王令後30年間のヨーロッパ情勢が、以後長期にわたってすべてを規定する祖型なのか、それとも1700年をはさむ±15年、すなわち1世代だけの問題だったのか。「太陽王」の時代の研究者はきちんと考えて明らかにしておくべき点でしょう。
 ぼくの答えは、限定的です。すなわち、ヨーロッパ啓蒙の res publica を強調し、したがって(途中は省きますが)E・P・トムスンの parochialism を批判する立場です。今ケインブリッジでやってる仕事は、根本的なEPT批判です。

その2:国教会


 さて昼食は写真のパブで摂りましたが、その入口の上に built circa 1756 とみえる。 circa というのは、根拠が危ういときに用いる便法でもあるんですが、まぁ18世紀をやってる者には話の種です。
 村の教会には、なんと1763年のジェントルマン寄進の王家の紋章がかかっていました。パブが7年戦争の始まりの年、国教会の紋章がその戦勝の年、ということで、イギリス近代史にとっての7年戦争は、日本近代史にとっての日清日露だろうか、と考えました。

 教区教会【国家=教会体制の末端、cf.「聖俗の結合」in『伝統都市』IV】にいかなる王家の紋章を掲げるか、が高教会派・低教会派の間の熾烈な争いの的になりうる、ということは、指昭博さんの文章にも暗示されていますし、ぼくの Church and politics in disaffected Manchester, pp.112-13 では明示的に論じています。

その1:Essex 探訪

 寒い8月に絶望しそうになっていたら、日曜はようやく日が差して、世界が明るくなりました。今日(月)は快晴。みんなが楽しげ。

 その日曜は、エセクス州探訪の日。4つあるJames のお宅のうち、ご自慢の Fingringhoe邸に訪ねるのは何度目かですが、妻を連れて行くのは初めてなので、前から楽しみにしていました。ガタゴト列車を Ely と Ipswich で計2度乗り換えて、コルチェスタ駅に12.01に到着。すぐにご長男、乗馬の雄姿を見に riding school に直行しました。

 Fingringhoe 村の邸宅は十二分に広く、いかにも4歳と3歳の男の子が育つにふさわしい家。なにしろ向こうの川原敷きまで届こうかという敷地に Mummyの納屋、Wの畑、Rの小屋、と作って【Daddy のは無し - 書斎とキチンがあって、そもそも全体を仕切る責任は彼にあるわけだから】、生意気ざかりの4歳児に言わせれば、'natural' をキーワードに子育て中。

 ついでに1月15日の本郷の研究会にいらした皆さんにはご覧に入れた、今は昔の写真も並べて、経年変化を見てもらいましょうか。

2010年8月6日金曜日

いまはもう秋‥‥

 1日の記事で「‥‥ケインブリッジは21度といった感じ(かわいそうに、Scotland では19度?)」などと書いた呪いか、今日はケインブリッジもたったの18度。これでは、着るものがない‥‥。
学寮のランチ時の雑談では、部屋ではオーバーを着てるとか、暖房を入れてるとか、いう人(東アジア人および老人)もいるかと思うと、断然半袖の人も少なくない(西洋人限定)。なんなんだ?
 暑さは7月の1・2週間ばかりで、もうケインブリッジの夏は終わりなのか? 今週は毎日 scattered rain & a bit of sunshine、確実に秋の気配。 そういえば日本では「立秋」ですね。

 写真は、勉強家および WiFi 利用者のよく知る、ロンドンのある昼食所。

2010年8月3日火曜日

故・松浦高嶺先生を偲ぶ会

 6月末にもこのページに記しましたとおり松浦先生が亡くなりました。先生をしのび、語りあう会が9月18日(土)午後に予定されています。
立教大学文学部のページ http://www.rikkyo.ac.jp/bun/LateMatsuura918.pdf にあるとおりですが、要点は
「* 日付と場所: 2010年9月18日(土)立教大学池袋キャンパス
 * 内容: 午後2時~3時 逝去記念式 (立教学院諸聖徒礼拝堂)
  午後3時15分~5時 茶話会 (セントポールズ会館2階)
 * 会費: 茶話会に参加される方については、当日セントポールズ会館2階の受付にて
   5,000円を申し受けます。」
ということです。
 参加申込みの方法についても、記されています。ご覧ください。


 じつはこれとは別に、同じく6月に亡くなった小林昇さんを偲ぶ会が、
10月9日(土)午後に、同じく立教大学池袋キャンパス内で、
   2時「経済学部葬」および
   3時半「偲ぶ会」として開催されるという通知をいただきました。
こちらは経済学部にお問い合せください。

20世紀が確実に去っていきます。

2010年8月2日月曜日

country house

盛夏の日本の皆さまには申し訳ありませんが、このところ England は最高気温せいぜい23度。ロンドンが23度だと、ケインブリッジは21度といった感じ(かわいそうに、Scotland では19度未満?)。

今日は曇天ながら Julian の Sunday lunch に招かれて、ケインブリッジの南西、Cockayne 村の17世紀の農家へ。
同時に むかしUCLでお会いして以来の Kathleen Burk 夫妻が招かれていて、15年ぶりにお話ししました。美味しい料理の後に庭でコーヒー。

夕刻には雨がぱらつく天気でしたが、カンスタブルに負けない絵になったかな。
「300年以上前の壁も柱も傾いている家の修繕に、どれだけ手間がかかるか」、「この広い庭の手入れがたいへんでね‥‥」とかいった会話は、たいていの日本の大学教授には縁がない。手間をかけるのが楽しいんだ‥‥。イースタ休みも、夏休みも家・庭いじり(+勉強)のためにある、とは恐れ入ります。

カリフォーニアをよく知るキャスリンによれば、
Sunday lunch is an English institution which Americans don't have. And I like it.

もう一つ、日本では許されない、ワインをそれなりに飲んだ後の運転。これがないと Sunday lunch ばかりか、こうした country house を購入して(擬似ジェントルマンのように)ときおり行き来する優雅な生活自体が、成り立ちません。‥‥そのための濃いコーヒー。