2015年12月29日火曜日

村上春樹の旋回!?

 遡って、20日(日)午後には東京ステーションホテルで4時間ほどの密度ある会議をもち、編著『礫岩のようなヨーロッパ』の出版の具体的な見通しをえました。
 気持が高揚し、そのまま帰宅する気になれず、夕刻、OAZO の丸善に入ったら、1階で唯一赤い表紙の岩波新書、『村上春樹はむずかしい』が目に飛びこんできました。著者は加藤典洋、ぼくの同期で仏文でした。どんなことを書いているんだと立ち読みを始めて、止まらなくなった。結局、二息ついてから、別の1冊とともに計2冊をもってレジの列に並ぶことになりました。

 村上春樹は、近代日本の、そして今日のアジアのインテリ、物書きから低く評価されている。芥川賞もとっていない。しかし、現代の日本および海外の若者、大衆的な読者、そして編集者や中文の藤井先生にアピールする何かを表現してきました。その理由は?
 村上春樹は明快に、近代日本のインテリの宿痾のような「否定性」(68年にぼくたちは「否定的直観」と呼んでいた)のダイナモを motivation とすることなく、肯定的なことを肯定する作品を自分のペースで生産し続けている(「気分が良くてなにが悪い」)。芥川賞の選考委員はこの「否定性のなさ」を「浅い」とか「空気さなぎ」とか片づけてきました。なにを隠そう、インテリの一人であるぼくも、遠い距離を感じてきました。
 だが、第1の事実として、村上春樹は(ぼくの2歳下で)1968年に早稲田の文学部に入学して、74年に卒業する。ヴェトナム戦争期に重なります。その間の早稲田の文学部がどういった所だったか、『村上春樹はむずかしい』p.65 には端的に「内ゲバによる死者数の推移」が挙がっています。ぼくも歴史として、記憶として』(御茶の水書房)p.182に書き付けたような経験を、村上はもっと生々しく、繰りかえし見聞きしていたようです。
  I keep straining my ears to hear a sound.
  Maybe someone is digging underground;
  or have they given up and all gone home to bed,
  thinking those who once existed must be dead? (pp.70-71、句読点を補充)
 そして第2に、父親の中国経験。
「暴力と死とセックス‥‥を避けてでなく、その内側に入り‥‥反戦と非戦の意志へと抜け出ていくことができるか。‥‥私たち日本人の戦後の冥界くぐり」として村上文学を最大限に称揚したのが、加藤の本書と言えるようです。一種の「ラブレター」とでも言えそう。

 これではなんだか、団塊の世代の村上文学を団塊の世代の評論家=加藤が論評したものを、団塊の世代の読者=近藤がどう読みとったか、といった具合ですが、しかし、じつは団塊の世代といっても、1968年に大学3・4年だった(本郷にいた)者と、1・2年だった者とではかなり経験の受けとめ方が違うのではないか、と思ってきました。大学にいなかった人なら、なおさらに違うでしょう。
 その点で、ぼくは村上春樹と彼の周囲の人たちの世界を垣間見て知っているし、彼と似た空気を呼吸したことはあります。しかし、70年代に異なる思考回路を選択し、以後、別の小宇宙で生活してきました。そうした村上がいま、「歴史に行くしかないんじゃないか」と言明し、「近代日本批判の従来型の否定性を‥‥脱構築しながら、なおかつ別種の新しい否定性を作り上げること、コミットすること」(加藤、pp.131,139)に力点を置いているのだとしたら、これはすごい事態の展開/転回なのかもしれない。
 村上の言では、こうなります。「‥‥井戸を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだ‥‥。」(p.140から重引)

2015年12月27日日曜日

卒業論文 指導

 この季節、12月の半ばを過ぎると東大ではさすがに学内校務はなくなって、論文審査と(もしあるなら)学外の公務を片づけ、期日を超過した原稿の執筆に入るといったパターンでした。「卒業論文指導」みたいなことは、在任中にやったことなかったような気がする‥‥。そもそも教師にとって学部生の指導は一番の業務ではなく、卒業論文のためにはTAがサブゼミを開いているのだから、こちらが余計な口出し手出しをする必要はなかった。また学生の立場からすると、むしろ積年の自分の読書と先輩の助言によって獲得したリサーチ力と執筆力を示す(自分は「アホやない」ことを証す)、というのが卒業論文であったし、今でもそうあり続けるのではないでしょうか。
 ところが、どうも私立大学の文学部では事情がちがうようで、教師がなにからなにまで教えこんで、手とり足とり指導するのが普通のようです。毎年度、たとえば
  段落は大事だよ、何故かわかるかな? 最初は1字下げるんだ。小学校の国語で習ったね。句読点もよく考えてつけよう。もし行末に来たら欄外にはみ出す約束、「ぶら下げ」ってんだ。よく見てご覧、ひとの論文は、章ごとに新しいページの頭から始まっているね。‥‥
  読んだ文献を使いながら議論に筋道をたてる。根拠を示すために、それぞれの箇所に註が必要だね。 1), 2), 3) って番号を上付に振ってゆくんだよ。好みで括弧なしでも (1), (2), (3) でもいい。脚註でも章末註でもいいよ。‥‥
  最後に参考文献表が必要不可欠。重要文献で、じつは読めなかったというものも挙げていい。ただし * とか # とか印をつけて区別するんだよ。
といったことを「卒論演習」の教室で言うだけでなく、個人面談でも(この子にこれで何度目だと思いながら)一人一人くりかえし「教える」というのは、じつに新鮮な経験です。そもそも『卒業論文作成の手引き』という5月に配布したパンフレット(計21ページ)に99%は書いてあることなのに! 大事なことは何度でも言う、根気が肝要、Teaching is learning という格言を再帰法的に実践しています。
 昨年の4年生ゼミは13名で個人面談を12月26日(金)までやっていましたが、今年は21名、最後は28日(月)です! もしや1月4日にも追加面談‥‥。
 この暮は、連夜の学外公務をようやく終了して、25日に4年生全員に宛てて送信した一斉メールで、次のように述べました。長文の一部で、ちょっと推敲してあります。

Quote: ------------------------------------------------------------

II. よい卒業論文のポイントを確認します。

§ なにより次の3点が大事です。
 a. Question (問い、何を知りたいのか)を明記し、個人的動機も述べる。標準的な研究文献にもコメントがほしい。
 b. 文献を読み調べてわかったこと、目を開かれたことを論じ、典拠を註に明示する。論文なのだから、高校の教科書に書いてあるようなことはクドクド述べない。議論の筋道を意識する。複数の研究者や専門論文、その間の違い・ズレを註に記すだけでなく、その差異の意味を本文で論じていれば、つまり、分析的な文章になっていれば、すばらしい。
 c. Question にたいする答え(Answer)を述べる。

どこでどう述べるかは、人により違っていてよいし、力の見せどころだが、理想的には、
 a. → はじめに(序)でクリアに述べる。長くなくてよい。
 b. → 本論(1章、2章、3章)でダイナミックに展開する。これはどうしても長くなる。
 c. → おわりに(結)で述べる。短くてよい。

§ 原稿はプリントアウトして読み直し、筋の通った明快な日本語になっているかどうか確認し、みずから添削し改善する。
 最初から最後まで、根拠・典拠をしめす註をつける(註は多いほどよい;ウェブページなら URL を示す)。註のない文章は、卒業論文とは認められません。
 註と参考文献とは、別物です。それぞれ必要。
 巻末に参考文献リストをかかげますが、みずから読んでない文献には * ▼ † などの印を付して区別します。
 図版や表は、分かりやすい位置にあれば、本文中でも巻頭・巻末でも問題ありません。写真やコピーも可。学校内の教育・学術目的の使用ですから、著作権・複製権などは問題になりませんが、どこから取ってきたか(出典)は明示。
 念のため、出典をあきらかにした引用と、出典を隠した盗用=剽窃(ひょうせつ)とは全然ちがうものです。前者は学問、研究の本質。後者は窃盗であり、犯罪です。

 ------------------------------------------------------------ Unquote.(加筆、推敲)

2015年11月26日木曜日

近代フランス農村世界の政治文化


工藤光一さんの遺著『近代フランス農村世界の政治文化:噂・蜂起・祝祭』(岩波書店)が出版されました。秋の実りの収穫がつづくと言いたいところですが、こちらは悲しい、最後の収穫です。彼が亡くなったのは今年の1月10日でした。 → http://kondohistorian.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html
 闘病生活がつづくなかで、校務や『二宮宏之著作集』の編集なども大変だったでしょう。努力と心配りの人でした。公刊のために推敲を重ね準備されていた原稿が、夫人の機転と友人たちの迅速な協力で世に出て、読めるようになったのは不幸中の幸いでした。

第Ⅰ部 噂と政治的想像界   【方法論と王制復古期】
第Ⅱ部 蜂起と農村民衆の「政治」【1851年に絞った考察】
第Ⅲ部 祝祭と「国民化」   【第二帝制と共和制期】
の三部構成で7つの章にわたって、19世紀フランスの地方社会における政治文化を解析します。開巻してプロローグの最初(p.1)に近藤の「政治文化」が引用されているのには驚きますが、本書のタイトル、キーワードでもあり、また政治を問い直すことが本書のテーマなのだから、順当かもしれない。本文および巻末注の議論は理論的・分析的に展開し、230+巻末31ページの充実した、気魄を感じさせる書物です。

解説を小田中さん、あとがきを高澤さん・林田さんが執筆して、出版にいたる事情を明らかにしておられます。亡くなった方の仕事への論及は、どうしても悲しい。
岩波書店の〈世界歴史選書〉ですが、なんと既刊の森本芳樹、佐藤次高、木村和男、工藤光一、すでに4名の方々が早々と逝去されました。

2012年3月にぼくが東大を定年退職した折には、工藤さんも元気な姿で参加してくれ、愉快にやりとりしました。その折の雰囲気を伝えるスナップ写真があります(左端)。

いよいよ本格的な冬に近づきます。どうか、健やかにお過ごしください。

2015年11月24日火曜日

フランス革命とパリの民衆


 松浦義弘『フランス革命とパリの民衆:「世論」から「革命政府」を問い直す』 (山川出版社)を落手。
 A.ソブールを実証的に批判しようとする立派な分析の書と受けとめました。とはいえ、マイナーながら2つ不満があります。
1) ソブール批判といっても、その実、柴田三千雄、遅塚忠躬の歴史学のもっとも枢要な部分への疑問/批判なのだということを、どこかで、とくに註18の前後にあたる本文(p.11)で明言すべきでした。でないと、日本語で出版することの意味が半減してしまいます。
2) よほどの理由がないかぎり本のタイトルに「 」を用いることにぼくは反対です。タイトルに使う語はほとんどすべてキーワードであり、概念であり、その内実を議論するために本を/論文を公にするのです。そのことを読者に喚起するのに「 」が必要というなら、「フランス革命」も「民衆」もそうでしょう。pp.6-8で「サン=キュロット」と表記されているように。もしや「ソブール」も?
 これはナンセンスで、昔の東大本郷のだれかが『週刊新潮』かなにかに影響されて始めた悪弊で、野暮を通りこしています。どうしても必要な『「パンセ」を読む』といった場合以外はカッコなど付けなくても、しっかり論じられるはずです。書物における品格も考えたい。
 
 近藤の名も言及していただきましたが、念のため、ぼくは1976年「民衆運動・生活・意識」から E. P. トムスンのモラル・エコノミー用語には疑問をもっており、その旨『民のモラル』初版【山川版 巻末 p.16】でも指摘しておりました。昨年〈ちくま学芸文庫〉から新版を出せたので、あらためて誤解の余地のないように修文しました【p.342】。柴田三千雄、山根徹也とは違いますので、お検めください。

 なおまたこの機会に、フランスとイギリスの関係【両革命の異同 pp.134-5;競争的交流 p.169;2つの近代のわたりあい p.205, etc.;ワイン pp.14, 63, 172, 180, 184, 232 ... 】についてイギリス史10講でも繰りかえし述べましたので、ご笑覧ください。さいわい増刷が続き、細かいながら改良を重ねています。

頸椎症性神経根症

 つい2週間前のことです。大学のエレヴェータで出会ったグレースーツの紳士が、右腕に三角巾をしておられたので、どうしたのですかと尋ねたら、「肩の骨がささくれだって、神経を圧迫し、耐えられないように痛む。70歳を越えたらだれでもなるかもしれない、と医者に言われた」とのこと。お大事にと言って別れた、そのときのぼくはけっして冷たい気持で聞き流していたわけではない。でも、あたたかい気持で親身に心配してあげていたわけでもない。要するにぼくには関係ない不幸として受けとめていたのです。

 天網恢々‥‥そうしたぼくを戒めるかのように、13日(金)の深夜、就寝時から突然、右の二の腕、肘、そして右肩が大変に痛み/しびれ始めました。時間とともに、悶絶するほど痛くなる。未明に起き出して、湿布(ロキソニン)を探し出して貼ったけれど、気休めにもなりません。
 翌日(土)は千葉の老母のところに行く約束で、睡眠不足のまま出かけて(昼間は不思議なことにさほど痛まないので)この日はさほどの力仕事もなく、無事に過ごしました。とはいえ、やはり就寝後、数分たつとしびれ/疼痛が始まり、これが少し部位を移しながら波状に朝まで続く、悶絶の夜です! 日曜は史学会大会。これも、起床・活動時は軽く耐えられる痛みなので、皆さんとも普通に会話できました。

 16日(月)、知り合いの薦めもあり、麻布十番の鍼灸院に行きました。生まれて初めて。ちょっと緊張しましたが、話のやりとりをしながら納得づくで身体をほぐし、鍼をうち、灸をすえて、リラックスはできたと思います。若いときからの緊張と無理な力みが右手、右肩、身体の右半分すべてに累積しているとのこと。とはいえ急に恢復するわけではなく、じつはこの月曜夜あたりから疼痛も厳しくなったような気がします。
夕刻にはスマートフォンの画面入力さえビンビン響くように、指先や手の甲など身体の浅いところが痛む。ロキソニンに加えて、就寝時にパジャマの上から「衣類に貼るホッカイロ」を右肩および右肘のあたりに貼り、またバッファリンを飲む、ということを始めました。
 しかし、あいかわらず深夜にくりかえす悶絶の経験から再考すると、ロキソニンは部位を冷やして痛みを逆に強めているような気がするし、ホッカイロは上手に貼らないと低温ヤケドに近い痛みが残ります。というわけで、ロキソニンは中止、ホッカイロは一箇所、肩のみ。バッファリンは効果はあるのだが、多用しないことが条件。
 水木金から土日にも校務(推薦入試の面接と判定会議!)が続き、ようやく23日(月)になって鍼灸院を再訪。肩から二の腕、肘の部位をピンポイントで確認しつつ処置してもらいました。この月曜からホッカイロ、バッファリンも止めて、勧められた温湿布、トウガラシエキスの入った「ホグリラ 温感」のみ。あとはお酒を断ち、朝・夜2回の風呂。 → これでなんとか快方に向かっている気分です。

 ところで麻布十番って、歩くのが楽しい所ですね。http://www.azabujuban.or.jp/access/

 なお、インターネットで日本整形外科学会のサイトから「頸椎症性 神経根症」というページを捜しあてました。その記述とわが症状はピッタリで、加齢変化によるのですが、付随的に「遠近両用めがねでパソコンの画面などを頸をそらせて見ていることも原因となることがあります」! ‥‥手術はよほどのことがないかぎり必要ないようで、「基本的には自然治癒する疾患です。‥‥治るまでには数ヶ月以上かかることも少なくなく、激痛の時期が終われば気長に治療します」とのこと。
 こちらも参考になりました。頸椎症にも2つあるんですね。→ http://www.sekitsui.com/9specialist/sp005-html/
 現代医学でも決め手はないようで、ぼくと周囲の皆さんの直観が合致して、鍼灸に頼ったことは正しかった、と信じます。とはいえ、即効はなく、身体を温め、冷たい部分がないように、そして努めて上半身を動かす、ということでしょうか。軽い体操も教えていただきました。神経根症は身体の真ん中および足腰には作用しないようです。そもそも歩数計を装着して毎日しっかり歩いていますので、今のところ足腰は大丈夫。

2015年11月15日日曜日

イギリス近世・近代史と議会制統治

収穫の秋、ということでしょうか。ぴたり関連する出版が続きます。

青木康(編)『イギリス近世・近代史と議会制統治』(吉田書店、2015
http://www.yoshidapublishing.com/booksdetail/pg670.html
10名の科研プロジェクトによる、16世紀から19世紀半ばまでのイギリス史の「詳細で実証的な個別研究」の論文集です。
  第Ⅰ部 代表制議会
  第Ⅱ部 海洋帝国の議会
  第Ⅲ部 議会制統治の外縁部
に分けて計11の章がありますが、序、第2章「18世紀イングランド西部の下院議員」、第4章「ブリッジウォータの都市自治体と1780年総選挙」が編者青木さんの執筆。

 「序」のあと、まずは最後の Jonathan Barry の「コメント」に惹きつけられて読みました。
これは日本の読者むけに有益な動向サーヴェイであるばかりでなく、そもそも1832年以前の議会・政治・統治というものをどう捉えるべきか(とくに pp.305-11)、重要な指摘を明晰に呈示している論文ですね。またイギリスの特異性・近代性だけにとらわれることなく、広くヨーロッパの「複合諸王国(composite monarchies)とその連邦的構成」のうちの一つとして認識すべきであるというパラグラフには、註(2)として、ケーニヒスバーガ、エリオット、そしてラッセル、ヘイトンが挙がっています。共著『礫岩のようなヨーロッパ』を準備しているところなので、いちいち肯きながら読みました。
ただし訳文は、センテンスの息が長すぎて、ときに苦しくなる箇所もないではない。英語と日本語は構文が違うので、すこし短めに複数のセンテンスに分けて接続を確認しつつ訳して下さると、短気な読者にもわかりやすくなったろうと思われます。
またバリーの最後の一文(p.311)は、わたしたち「異なる政治体制のもとで暮らしイギリスの経験を冷静に見ることができる」日本人歴史家の問題意識を評価しつつ、この出版をことほぐ賛辞かと思われます。訳文ではそれがちょっと曖昧。

巻末の「人名索引」は歴史的人物に限定されていますが、13ページにわたり入念にできあがっています。

というわけで、あいつぐ有益な出版ですが、先の『国制史は躍動する』にくらべると、タイトルが実直すぎて、メッセージ性がちょっと不足します。「議会制統治」というのがキーワードでしょう。困ったときには英語にしてみて再考するというのが、むかしから青木さんのお知恵だったと思いますが、今回の英語タイトルは、いかに?

2015年11月14日土曜日

宗教戦争と文明

 「国制史」か「秩序問題」か、などと悠長なことを言っていたら、13日、パリでのたいへんな一連の事件が耳に入ってきました。報道に出てきた後藤健二さんのお母さんが心配していたとおり、「憎悪と報復のくりかえし/増幅」になってしまっています。
今年5月に刊行された、谷川 稔十字架と三色旗』(歴史のフロンティア → 岩波現代文庫版)が論じている「やわらかいライシテ」と「やわらかいイスラム」以外には、根本解決はないのではないかと思われます。
16・17世紀ヨーロッパの宗教戦争から生まれてきて「ポリティーク派」と貶められた公共善派、すなわち純粋主義(puritanism)を離れた「世知」にこそ、信教をめぐる戦争を越える道はある。それ以外に希望はないかもしれない。近世英語でも politic という形容詞は今日の「政治」と無関係ではないが、むしろ古典語の polis(都市共同体)や politicus(都会的、文明的、公共の作法を知る)の意味合いを継承していました。用例をみても、英語 polite や civil に近い。
Civil で polite で politic な文明に希望を託したい。

国制史は躍動するか?

昨夜、いろんな校務を終えて、さぁわが第1章「礫岩のような近世ヨーロッパの秩序問題」に復帰、いよいよこれを脱稿して送信するぞ、と意気込んで帰宅したところ、青天の霹靂!

池田嘉郎・草野佳矢子(編)『国制史は躍動する:ヨーロッパとロシアの対話』(刀水書房, 2015
という本が待っていました。
編者をふくむ9名の共著ですが、池田さんが
  序 論 「国制史の魅力-ヨーロッパとロシア」
  第1章「ソヴィエト・ロシアの国制史家 石井規衛」
  第7章「ロシア革命における共和制の探求」
  そして「あとがき」、つまり計4箇所も執筆している。
独壇場とはいわないが、池田的博学とリーダーシップあってこその論文集です。
ブルンナー、成瀬治、鳥山成人、渓内譲、和田春樹といった研究史の大きな流れのなかに、国制史家=石井規衛の仕事が位置づけられて、読者は目を覚まされる。
しかも中近世史では、渋谷聡、根本聡、中堀博司、そして
ロシア史では田中良英、青島陽子、巽由樹子、草野佳矢子、松戸清裕といった皆さんの章がある!

いまこちらで準備している共著『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社, 2016)は、けっして『国制史は躍動する』に負けない論文集ですが、それにしても、ぼくの担当する第1章にかぎって、研究史的になにか対応が必要かと思い、急ぎ読みました。

『国制史は躍動する』について各論より前に、ただちに思いつく研究史的な瑕疵は、ブルンナーや国際歴史学会議にも関連して、
1.世良晃志郎と堀米庸三の間であった「法制史」「一般史」論争に言及がないこと。でも、これはごくマイナーな瑕疵。
2.「国家と社会の区分が可能となる以前のヨーロッパにおける文明の内部構造の総体」「国家と社会の対置が成立しない秩序の総体」(pp.6, 13) を問うことには大賛成で、「友軍」といった感覚をもちます。しかし、それを狭く「国制史」に収斂させてよいのか。
むしろ、これはヴェーバーもパーソンズもハーバマスも問うていた根本問題ではないのか。ブルンナーが第二次大戦後に「社会=構造史」といった用語を使った理由は、なにもナチス的な臭いの残る Verfassungsgeschichte を回避するだけでなく、彼自身の成長を反映した、ある広さ・構造性を意識していたのではないのか、といった疑問をもちます。
ぼく自身は、これを「ホッブズ的秩序問題」、そして18世紀啓蒙の政治社会(political society)という概念から学び、解決しているつもりです(たとえば『イギリス史10講』p.133)。今後とも丸山眞男的な国家と社会の区分とはちがう地点、また市民社会欠如論ではない発想で、議論を進めたいと考えています。【→ 次の発言】
3.「ある社会の歴史的個性を総体として捉えるという国制史の視角には、‥‥同時にまた類型をも提示するという、二面性がある」(p.19)という文は、それだけ読むと悪くはないかもしれないが、しかし比較社会経済史の人々なら笑い出してしまうでしょう。大塚久雄・高橋幸八郎・遅塚忠躬といった先生たちは、まさしく
「ある社会の歴史的個性(specificum: なぜかラテン語)を総体として捉える社会経済史は、また同時に類型(Typen: なぜかドイツ語・複数)を提示することによって、比較を可能にする」
と考え、営々とそのような学問を構築していたからです。せっかく序論 pp.3-4 で「社会全体の仕組みを捉えん」とする志において社会経済史と共通すると示唆していたのだから、ここも注意深く書いてほしかった。

それにしても、本書が共著出版として立派なものであることに異論はありません。
岡本隆司(編)『宗主権の世界史:東西アジアの近代と翻訳概念』(名古屋大学出版会, 2014)と併読すると、なおさら価値が高まるでしょう。

 不意をつかれて慌てましたが、一晩たって、共著『礫岩のようなヨーロッパ』はこのままでも問題ない、しっかり公刊することが大事、と思えてきました!
 妄言多謝。

2015年10月20日火曜日

クレオパトラの鼻

 パスカル『パンセ』の3巻本。塩川徹也さんの新訳により、岩波文庫から刊行中

 上巻には「人間は一本の葦にすぎない。‥‥しかし、それは考える葦(roseau pensant)だ」【断章200番:p.257】がありましたが、今月刊の中巻には、いよいよ例のクレオパトラの鼻の想定があります。「もしクレオパトラの鼻がいま少し低かったら‥‥」という有名な断章ですが、前々から2つほど疑問でした。
1) 原文は Le nez de Cléopâtre, s'il eût été plus court, toute la face de la terre aurait changé.
なのになぜ、普通の日本語訳では「もし」から説きおこすんだろう。そういえばルイ14世の科白とされる L'état, c'est moi.
についても「朕は国家なり」と語順を前後して訳す習慣ですが、なぜ? ささやかながらぼく自身が言及するときは「国家とは、朕のことなり」と訳してきました。
2) もう一つの疑問は、フランス語の plus court とは英語の shorter に当たりますが、これを「いま少し低い」と訳すのか。ちょっと(日本人のコンプレックスの反映した?)意訳だな、という感想でした。

 で、期待をこめて塩川訳『パンセ』断章413番を捜すと(そもそも恋愛論ですね):
 人間のむなしさを十分に知りたければ、恋愛の原因と結果を考察するだけでよい。その原因は「私には分からない何か」なのに、その結果は恐るべきものだ。この「私には分からない何か」‥‥が、あまねく大地を、王公を、軍隊を、全世界を揺り動かす。
クレオパトラの鼻。もしそれがもう少し小ぶりだったら、地球の表情は一変していたことだろう
。【中巻、pp.43-44】

 上の 1) について言えば、語順をフランス語の出てくるまま順当に「クレオパトラの鼻」マルと、まず言い切ってしまう。じつは似た断章がすでに出ていました【上巻、p.238】。
 人間のむなしさを示すには、恋愛の原因と結果がどんなものであるかを考察するのにまさるものはない。なぜなら恋愛によって全世界が変化するからだ。クレオパトラの鼻。

この断章を丁寧に補って、クレオパトラの鼻を例に想定しての推論だとしっかり確認したうえで、もしそれがもう少し‥‥だったら、という非現実の仮定による counterfactual な議論に進むのですね。 ということは、同様に「国家と言えば、それは朕のことなり」という訳でよろしい、という免許をいただいたような気分!

 そこで 2) について見ると、「もう少し小ぶりだったら」ですか! ギリシア鼻か、ラテン鼻か、高いか低いか、長いか短いか、といったよく分からない論議をするよりは、court というフランス語には英語の short と同じく、「なにかが足りない」「不十分だ」という意味もあるので、そちらに寄せて「小ぶり」と言ってみたわけですね。
 そもそもパスカル先生は、「私には分からない何か」が、あまねく大地を、‥‥全世界を揺り動かすと言ったうえで、パラフレーズして「私には分からないエジプト女王の顔の真ん中の魅力」が大地を、カエサルを、ローマを、世界史を揺り動かした[ここまでは過去の事実]。もし、その女王の顔の真ん中の魅力になにか足りないものがあったなら[counterfactual]、カエサルもローマも揺るがず、プトレマイオス朝の運命も違っていただろうし、地球の全表情(toute la face de la terre)は一変していたでしょう、と言い切るわけです。
 すごいですね。【地中海の覇権のゆくえくらいで、「地球の全表情」なんて言わないでよ、とアジア人なら言いたくなります!】

2015年10月18日日曜日

文学部がひらく新しい知

 東京大学文学部にて、ホームカミングデイの催し
「文学部がひらく新しい知」という集会があるというので、行って参りました。
と言うより、むしろ、他ならぬ熊野純彦学部長・研究科長が
時空の近代、人文知の時空--あるいは国家と資本と文化について
という60分の基調報告をなさり、これに橋場弦、齋藤希史、唐沢かおり、といった論客が応じるプログラム。そうと知ってしまうと、行かずんばならず。勤務先には多少の無理を承知していただき、土曜の午後の本郷に参りました。
http://www.todai-alumni.jp/hcd2015/2015/08/post-d583.html
 「入場無料、定員200名(先着順)」
というので、まさか「満員御礼」、ご免なさい、となってはいかんと早めに一番大教室に着席しました。年齢層からいうと、ぼくくらい(ないしずっと年長)+20代くらいの学生たち、が聴衆のほとんどでした。

 仏文の野崎歓さんの当意即妙な司会により進行。直接的には、文部科学省が国立大学の「‥‥教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については‥‥組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」とした「見直し」にたいする否定的直観から出発した、熊野研究科長の哲学・倫理学の講話でした。和辻哲郎とハイデガー、そしてマルクス、ヨアヒム・リッター、バターフィールドが引用されました。
 熊野さんによれば、現在の文科省と国立大学法人で進行中の事態は、近代に確立した人文知の生産・再生産の「外部化」という位置づけです。ただし、これが≒民営化なのか、どなたかが言い換えられた「アウトソーシング」なのか、ちょっと分からないところが残りました。
 ぼくのような世代ですと、1970年代・80年代の国立大学の貧困と自由な時間(そこに民青的平等主義+物取り主義が貼り付いていました)は、94年以降の活性化と忙しさに比べて、ぬるま湯的であったが、けっして良くはなかった。90年代の変化は、大学院生への学振特別研究員制度、科研費による海外渡航の自由、といった明らかな改善が伴っていました。ただし、94年前後の大学院重点化にともなう制度いじりについては、何が良かったのか、ぼくには分かりません。

 3人のコメントは、それぞれの背景がちがうので、発言のトーンも違いましたが、ぼく個人としては、人文学および東京大学の特権性、あるいは野党性に居直るよりは、唐沢さんの「うちらこそメインストリーム」という矜持、齋藤さんのどこまでも交通と通信(マルクスなら Verkehr)を続けるという姿勢が望ましいと思います。
 そもそも国家の営みから「外部化」されたからといって、即、資本の市場に放り出されることを意味するのでしょうか。そこには「市民社会」「公共圏」「民間公共社会」などと呼ばれる領域、人文社会系の学問がさんざ論議してきた問題があります。ぼくたちの世代が平田清明を夢中に読んでいた、その直後にハーバマスが登場して、のたまうことには、公共圏と(広義の)営利活動は無縁ではない。金もうけやスキャンダルのニュースと、権力批判や繊細な文芸は表裏一体で新聞雑誌を発展させた、と。今日ではアソシエーション/チャリティ/NPO/メセナなどの語で言われる活動もあります*。
 論文の仕上げと競争的資金をゲットするための作文が重なって徹夜したり、寝不足のままアウトリーチ活動に出かけたり、といったことも若い時期にはあっても悪くはない。それにしても今日のディスカッションの教訓は、時には落ち着いて、自分の学問なるものが世のため人のためになっているか再考しよう;国民の血税から給料をもらっていることにどう申し開きをするのか(accountableなのか)沈思黙考してみよう;ということではないでしょうか。
 高踏的であるのは、どこか狂っている、健全ではない、と思います。

* J. ブルーア『スキャンダルと公共圏』(山川出版社、2006);近藤「チャリティとは慈善か」『年報 都市史研究』15(山川出版社、2007)

2015年10月5日月曜日

大学ランキングの意味


 Times Higher Education による大学の国際ランキングで東大、京大がそれぞれ順位を大きく下げ(23 → 43)(59 → 88)、ほかに去年まで200位以内に入っていた大阪大、東北大、東工大をはじめとする日本の大学が沈没した、と記事になっています。代わってシンガポール大(26)、北京大(43)などが日本の両大学より上位か同位に付けている、と。
https://www.timeshighereducation.com/news/world-university-rankings-2015-2016-results-announced
 べつにナショナリストとして言うわけではないけれど、第1に、どういった指標・計算根拠で算出された結果の一覧表なのか、ということを理解しないまま、煽るようなことを言ってみてもしかたないでしょう。米英をはじめとして、英語で教育している大学の順位を計算しているわけで、フランスの École Normale Supérieure が54位(東大より下)にあることにも現れているように、そもそもグローバル化=英語化という大前提で算出しています。
算出方法はこちら↓
https://www.timeshighereducation.com/news/ranking-methodology-2016
 詰まらんランキングなのですが、しかし第2に、この偏位性のあるリストのなかでも去年まで東大は23位、京大は59位、そして両大学以外にもコンスタントに3大学が200番以内に入っていた。それが今年はそれぞれ大きく順位を下げた。何故か、という問題は残ります。THEの解釈は↓
“Research depends on the free movement of both ideas and people, and countries that adopt a more closed stance pay the price in the end. This is a prime cause of the substantial long-term declines in the global position of research in both Japan and Russia.”
これにフランスを加えて『ふさがれた道』(Stuart Hughes)と言いたいのかな。
スイス・ドイツ・オランダから北欧圏は健闘しています(アメリカの人的資源の出所です)。ちなみに行ったことのある大学で、レイデン大は67位、コペンハーゲン大は82位、ルンド大は90位。

 ただし、日本の大学が一斉に順位を下げているのは、円安(ドル換算で相対的に低い評価になる)により、研究資金・予算・収入が下がったと見なされたことにもよるのではないでしょうか。逆に、中国の大学が一斉に順位を上げているのは、国策の「成果」はもちろん、半年くらい前までの強い元の反映でしょう。来年度はまた入れ替わる、ということが予想されます。 

 最後に THE の編集者は、日本の大学の「実力」について、次のような気休め(?)にもならないコメントをしています。グローバルにみたら数的に第3位の中位の実力、ちょっと製造業における実力と似ている!
But despite its diminishing performance, Japan still has strength in depth: it is third place in the world in terms of the number of institutions represented, with 41 appearing in the top 800.

 それにしても、旧帝大と、旧制の大学(東工大や東京医歯大など医・工学系の大学)のほとんどが、慶応、順天堂、東京理科大まで顔を出していますが、早稲田が601~800のランクのビリから3番目に名を出し、一橋大は顔を見せないといったリストに、いったいどういう意味があるのか、ということですね。
 見方をかえると、41/800 という数字には別の寓意があって、日本の「大学」と称するものの合計が約800ですから、そのうち医・理工系で通用する機関が約41という風にも読めるのかな?

2015年10月3日土曜日

遅塚先生

『日本経済新聞』には有名な「私の履歴書」とともに、そのマイナー版のような交友録のコラムがいくつもあり、それぞれ良いのですが、
9月29日(火)の「交遊抄」には立石博高さんが「青銅の気持ちで」と題して遅塚忠躬先生のことを書いておられます。東京都立大学時代(1969-87)に大学院生にどう接しておられたのか、ぼくの知らない世界ですが、でも立石さんが書いておられることは十分に想像できる。ぼくの知っている遅塚さんです!

ぼくが遅塚さんに初めて出会ったのは何年何月何日かいまとなっては言えないけれど、しかし、たしかに東大の授業再開後、ぼくは院生で、おそらく1971・2年のある日の本郷の西洋史研究室、今では談話室と呼んでいる、あの大きな机を囲む部屋でした(名誉教授たちの肖像写真はまだなかった)。遅塚さんのほうから、「あなたが近藤くんですか。遅塚です」とにこやかに明朗に、声をかけてこられたのです。
→ 写真
以後、本郷に非常勤講師でいらしたころ(1975-76年)にぼくは助手で授業を聴講する権利はなかったけれど、3・4学年ほど下の青木康や深沢克己などと一緒に講義を欠かさず聴いてしっかりノートに取ったものです。一言一句逃すまいと、可能なかぎり速く筆記する術を身につけました。そのころの深沢くんは目黒区のアパートと遅塚家とが案外に近隣だというのを発見して、ぼくたちにその喜びを語ったものでした。1976年10月、土地制度史学会の高知大会にまで一緒に出かけたのは、そうしたことの延長でしょう。みんな遅塚ファンだったのです(藤田さん、高澤さん、岩本さんをはじめとする女子学生だけではありません)。
その後もあらゆることでお世話をかけっぱなしで、パリのモンパルナスでの会食、サンドゥニへの珍道中とか、名古屋の研究会とか、たくさん楽しいこともありましたが、『過ぎ去ろうとしない近代』(1993年3月)以降、晩年は、むしろ先生とぼくとの距離感がはっきりしてしまいました。最後は、本郷構内でお一人でおられるところに遭遇したのですが、2010年の春、『史学概論』公刊の直前だったでしょうか、弱っておられました。
告別式で棺のなかの御遺体と、その脇に添えられていたものを見て、感極まり嗚咽したぼくにたいして、ある男が「近藤さん、泣いちゃだめだよ」と言いました。

先生の大きくて優しい声は、いつも心のなかに響いている。

「交遊抄」を読み、立石さんとぼくは近いところにいるのだと思いました。

2015年9月15日火曜日

おもろい大阪

 ぼくの父母は結婚してすぐに大阪・住吉区に住み、1945年3月の大阪大空襲に遭難してたいへんな思いをしました。松山に戻ったあと、1954年からは父が大阪梅田に通勤するにあたって、阪急・桂駅の近くに新居を構えた、といったことがありますから、ぼくは東京・関東しか知らない人びととは違う感覚をもっています。
それにしても、このところ大阪に行く機会がふえて、阪大・中之島センターに行くには環状線・福島駅から歩ける;中之島・川の手がおもしろいし、東洋陶磁美術館はすばらしい;そこから鉾流橋を渡って裁判所の裏手にまわると、古美術店やフランス料理店などの連なる一瞬、ここはどこだったかと迷うような街路が出現して、楽しいですね。
でも駅のエスカレータで、うっかり左手に立つ自分が目立つのを認識すると、こうした写真をおもろいと考えるのと相通じるものがありそう。
中之島の市役所で、こんなコーナーを見つけました。カワいいね。ぼくが東京で住んでいる深川から日本橋にかけても川の手です。近世までの大都市は、水運の便がなければ成り立たないとは、このブログでも先に書き付けましたかね。

堂島に米市場ができ、商売人の市民社会が形成される1730年は、なぜか時代的にロンドンで a polite and commercial people が語られるのと同時代です。
でも、こういう「面白い」大阪土産の命名はよそではしないと思うんですが。

2015年9月7日月曜日

Windows 10 へのアプグレード

土曜の夜のことでしたが、「案ずるより産むは易し」。
(予約だけは以前に済ませていましたが)何もトラブルなしで、開始して1時間(?)。じつは他のことをしながらの作業でしたので、画面をつねに見ていたわけではなく、それ以前に終了していたのかもしれません。
「数回 再起動します」
というメッセージが途中にあり、実際、何度も再起動していたようですが、Windows XP におけるように再起動のたびにpwを入力する手間はなく、機械的=自動的に「最後の処理をしています」まで進行しました。

心配していたのは、これまですでに蓄積していたソフトおよびデータ(ファイル)の保存と再構築‥‥というOS変更に付随する手間でした。そのために『日経 PC21』10月号〈Windows 10 アップグレード完全ガイド〉も買い込み、外部メディアも用意して臨んだのに、そうした支障や作業はありませんでした。拍子抜け。一番最後に「簡単起動」でのみ、pw入力が求められましたが。そして、心配していた「一太郎2011創」や「秀丸エディタ」といった旧ソフトウェア【今ではアプリと言うんですか?】も生きていて正常に使えました!
OS の変更(移行=引越)というより、あたかも同じOSのなかの「大事な更新サーヴィス」のような感じです。

遡って、先週までの現状を申しますと、わが3台のPC(自宅、Office、SSDノート)は、2014年春の XPの更新サーヴィス停止いらい、Microsoft Security Essentials 更新プログラムで生き延びていた、勤続6年ないし7年のヴェテランです。
大学の部屋にあるお仕着せの Windows 7、そして個人保有の機動的に持ち歩くべきウルトラブック(Windows 8.1)とぼくは相性悪く、必要に迫られないと使わないという不便きわまりない現状でした。
じつは12年前から居住する自宅の有線LAN 環境が良いので、無線のルータさえ去年まで入れずに過ごしていました! 去年秋のスウェーデン・デンマーク・ロンドンで借用した iPad 初体験、そして暮れのスマホ(Xperia)導入がなかったら、まだ wireless に転向していないかもしれない。
もっぱら思考し執筆し推敲するときは、インタネットに接続していなくても stand-alone で仕事できる(そのほうがメールも見ずに集中できる)という考え方だったのです。

今回アプグレードした Windows10 の画面は、ほとんど XPのそれに近く、物書き/考える人には懐かしいものです。ようやく、これにて XP はお役ご免。とはいえ、そのハードディスクは危機対応記憶装置として、そして時折は気分を変えての文章作成機(ワープロ専用機?)としてまだまだ働いてもらいます。
今週からの現有デヴァイスは、XPのままの物が3台、アプグレードしたWindows 10 が2台、スマホ(Xperia)が1台、となります。

2015年9月4日金曜日

鶴島博和 『バイユーの綴織を読む』


待望の『バイユーの綴織を読む - 中世のイングランドと環海峡世界』(山川出版社)
を手にしました。
綴織(つづれおり)の写真はすべてカラーで、関係史料をていねいに訳出しつつ対照するという編集。
ぼくの『イギリス史10講』pp.35-40あたりで書いたことに比べれば、当然ながら、はるかに叙述の細部にも、研究史的にいろいろな配慮が行きとどいていて、すばらしい。モチーフは、ただ「ギヨーム公がハロルド簒奪王を追討することの正当性」だけでなく、むしろ「ハロルド王の悲劇」をうたいあげた物語なのかもしれない。鶴島さんは、ハロルドの死についても、制作過程についても、よくわかる説明を加えています。

詳細な索引もついて、332+ページで 4600円という信じられない定価! 山川出版社としても「売れる」という確信を得たわけですね。
著者が「出版企画をもちこんだのは、30年近く前のこと」という豪傑ぶりですが、「日本語で書こう」(p.331)と方向転換するまでが大変なんだな。ぼくも肩をたたかれたような気がします。

謝辞には「神経的多動性症候群」と書き付けておられますが、
こういった作品を産んだのなら、それも悪くはないじゃないですか! 
若手のうちでも、成川くん、内川くんが少しはお手伝いできたとしたら嬉しいかぎりです。

2015年8月30日日曜日

安倍首相談話 と 賢人たち

ご無沙汰しています。暑い夏でした。
8月14日の「首相談話」について、旧聞に属するかもしれませんが、一言申しますと、有識者会議の強い意見の成果でしょうか、ミニマムの合格点になったと思います。満点ではありません。
とりわけ政府の責任で発表された英語版にも注意したいと思います。ぼくはこれを北海道・礼文で読みました。
「‥‥痛切な反省と心からのお詫びの気持を表明してきました」という日本語が過去形だと問題にする筋もありましたが、英語では明白に、過去形でなく現在完了形です。
Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war.
念のため、現在完了形とは、過去のこと、終わったことでなく、present perfect (完璧なる現在)という時制です。高校英語では「現在完了の3つの用法」といったアホな教え方をしていますが、(経験・継続・完了のいずれであれ)あくまで現在を歴史的にみた表現。単純過去や単純現在とちがって、今を成り立たせているものの来し方を見通す時制でしょう。割り切っていえば、過去形でなく現在形であり、条件反射の時制でなく、今を歴史的に見渡す時制です。
The past is not dead; it's not even passed.
というフォークナとも共通する「歴史をみる眼」=「現在をみる眼」=「将来をみる眼」。これを、安倍首相の個人的な好悪をこえて公に発信せよと説得し、迫り、「うーん、しかたないか」と従わせた賢人たちに、敬意を表したいと思います。

2015年8月29日土曜日

永栄 潔

朝刊にて、永栄 潔 の名に遭遇。
『朝日新聞』を定年退職して大学非常勤講師や、高校同期会でも活躍している永栄。その著書『ブンヤ暮らし三十六年 回想の朝日新聞』で第14回新潮ドキュメント賞を受章と。おめでとう!
https://www.shinchosha.co.jp/prizes/documentsho/

千葉高校時代には陸上部でも生徒会でも活躍していた。女の子の心をときめかしてもいた。結局、結婚したのも同期の女子だ。ぼくたちが2年生の秋、翌年度から3年生を文系理系に分けて編成するという学校の告知にたいして、千葉高校の教養主義の終焉というので、ぼくたちはブツブツ言っていたのだが、全学集会で一人挙手して、教頭に質問があります、といった永栄は格好よかった。そのあと一人召喚されて、「はい」と言わされたらしい! ちょうどヴェトナム戦争、北爆の1964年だった。
今も体形を維持して格好いい68歳。どうぞお元気で!

2015年8月7日金曜日

首相の有識者会議

 毎日 暑いですね。
 例年、その暑い8月には20世紀史の史料や史実が公開されて目を覚まされますが、この夏は、8月14日録音の「大東亜戦争終結に関する詔書」(玉音放送)の原盤発表にかかわり「御文庫付属室」の写真、そしてなにより安倍首相諮問の有識者会議「21世紀構想懇談会」の報告書が各新聞に載りました。この16名の「有識者」の選定にどういう力が働いたか存じませんが、北岡伸一さんのイニシアティヴは明らかで、9割方は現実的で穏当な委嘱だったと思われます。林健太郎も中曽根康弘も「侵略戦争」と認めているアジア・太平洋戦争ですが、なかには冴えない先生も交じっていて「国際法上定義が定まっていないなどの理由で「侵略」という語を用いることに異議が表された」とのことです。これがだれなのか、簡単に同定できますね。
 じつは靖国神社について論及していないのも不満ですが、とはいえ、まずは現首相に「読む気」になってもらわなくてはならず、そこは一種のレトリックとして、必要不可欠、絶対に踏まえるべきことを明記し訴えた、という位置づけでしょうか。

 ぼくの側では、もっと卑小なレヴェルでの発言ですが、『週刊読書人』7月24日号に〈上半期の収穫〉をしたためています。今年の3点は、
T.ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)、
J.ウァーモルド【どうしてワーモルドじゃないの?】『ブリテン諸島の歴史 17世紀 1603-1688』(慶応義塾大学出版会:Langford 監修の SOHBIの翻訳)、
そして
服部春彦『文化財の併合』(知泉書館)です。

2015年8月4日火曜日

Paul Langford 1945-2015

 ラングフォド先生の授業(講義)を、ぼくは1981年にケインブリッジの Faculty of History 棟で聴講しました。オクスフォードから一種の非常勤講師として1学期間だけいらしたのです。ぼくの2歳年上とはいえ、24歳から特別研究員(junior research fellow)として研究に専念し、 The Excise Crisis (OUP, 1975)をはじめとして、18世紀の諸イシューを焦点に、政治社会史をダイナミックにとらえようとする仕事を次々に発表する新しい星として、日本でも松浦高嶺さん、青木康さんをはじめ、知る人ぞ知る研究者でしたから、毎週欠かさず聞きました。あのとき36歳だったのですね。

 ぼくの先生 Boyd Hilton, そして John Morrill と同期で、同じオクスフォード歴史学の秀才3人組。Langford (18世紀)が、生涯、オクスフォードで教え、(HRB、一種、日本学術振興会の会長さんみたいな激務でロンドンにいた期間は別として)勤務したのにたいし、Morrill (17世紀)、Hilton (19世紀)の2人は、ともに以後ケインブリッジで生涯を過ごすことになった。オクスブリッジのどちらが上か、強いか、というのは(ほとんどセリーグとパリーグを比べるのに等しい)愚問に属するけれど、それぞれの歴史学部の顔となったわけです。
 その主著 Langford, Public Life & the Propertied Englishman (OUP, 1991) は Ford Lectures の大冊ですが、2つの意味で印象的でした。1) J. ハーバマスにただの一度も言及することなく18世紀イギリスの言論、公共性、ブルジョワ、商業生活を論じていること。2) 18世紀前半の宗派がもろに表面化する係争的政治文化から、後半への転換を論じるところで Kondo, The workhouse issue at Manchester (Nagoya University, 1987)が数度にわたり論及・引用されていること。

 1995年、ロンドン在住中でしたが、Joanna Innes の仲介でラングフォド先生の18世紀史セミナーで研究報告することができました。リンカン学寮の中庭に面した、明るい=ネオバロック風の部屋。事後に恒例の The Mitre で一杯飲んだあと、 Covered Market 近くのピザ屋で、上の2点について改めて尋ねてみました。2) については外交辞令的な(?)お褒めの言葉でしたが、1) についてはハーバマスなんて読んでないし、影響も受けていない、自分は経験主義史家だ、と繰りかえされました。

 まだ若いぼくとしては、こうした答えにはいささか不満が残る夜でした。しかし、この English elite のイメージとは異なる風貌の、オクスフォードを代表する知性と議論できて、なおぼくの側の地平の広まりと深まりが必要だと再認識したことでした。やはり南ウェールズの出身で、どこか John Habakkuk に似た雰囲気でしたね。
 しばらくご病気だったと聞いていましたが、訃報を聞き、いろいろなことが甦ってきました。ご冥福を祈ります。

2015年7月25日土曜日

日英歴史家会議(AJC)プロシーディングズ


 旧聞に属す、とお考えかもしれません。2012年9月にケインブリッジ大学トリニティホール学寮にて開催された第7回日英歴史家会議(AJC)ですが、その編集プロシーディングズは未刊行でした。諸般の事情が複合して、会議の後すみやかに刊行することかなわぬまま経過しておりましたが、この間の友人たちの奮闘努力により、ようやく公刊にいたりましたので、お知らせします。xii + 322 pp.の美麗な本です。
 表紙写真は開催時のトリニティホールで、会議場は手前にみえる看板の矢印のとおり直行して歩いたなお先にありました。The hidden gem という渾名をもつこの学寮において、History in British History を共通テーマにかかげた有意義で楽しい会議が3泊4日にわたり実現したのは、なにより11名のAJC委員(x ページにお名前が列挙されています)とロンドン大学歴史学研究所(IHR)、そしてトリニティホール学寮長ドーントン教授の協力の賜物です。

 じつは各セッションのコメント、また若手のペーパーについて収録できなかったものが少なくないことは残念至極です。もし時宜を逸したとのそしりがあれば、甘んじて受けます。巻末には Appendix として AJC の第1回(1994)~第7回(2012)のプログラムを収めました。これは後の刊行物ではなく実施時のプログラムによるもので、史料的な価値がないではないと思われます。
 たしかに完璧とは言いがたい刊行物ですが、Preface の最後にお名前を刻印した方々の助力があってこそ日の目を見ることになりました。叱咤激励をいただいた皆さまに感謝いたします。

 なお 今年8月10~11日には大阪大学中之島センターにて第8回日英歴史家会議(AJC)が開催されます。
http://ajchistorians.wix.com/ajc2015
 この本は、会場でも頒布される予定です。 近藤和彦